(2)

 相撲やチャンバラ遊びや鬼ごっこといったものは、室町時代(注1)や江戸時代(注2)から連綿(注3)として続いてきた遊びである。明治維新(注4)や敗戦、昭和の高度経済成長といった生活様式の激変にもかかわらず、子どもの世界では、数百年以上続いてきた伝統的な遊びが日常の遊びとして維持されてきたのである。

 しかし、それが1980年代のテレビゲームの普及により、①絶滅状態にまで追い込まれている。これは単なる流行の問題ではない。意識的に臨まなければ取り返すことの難しい身体文化の喪失である。かつての遊びは身体の中心感覚を鍛え、他者とのコミュニケーション力を鍛える機能を果たしていた。これらはひっくるめて➁自己形成のプロセスである。

 コミュニケーションの基本は、身体と身体の触れ合いである。そこから他社に対する信頼感や距離感といったものを学んでいく。たとえば、相撲を何度も何度も取れば、他人の体と自分の体の触れ合う感覚が蓄積されていく。他社と肌を触れ合わすことが苦にならなくなるということは、他社への基本的信頼が増したということである。③これが大人になってからの通常のコミュニケーション力の基礎、土台となる。自己と他者に対する信頼感を、かつての遊びは育てる機能を担っていたのである。

 この身体を使った遊びの衰退に関しては、伝統工芸の保存といったものとは区別して考えられる必要がある。身体全体を使ったかつての遊びは、日常の大半を占めていた活動であり、なおかつ自己形成に大きく関わっていた問題だからである。歌舞伎や伝統工芸といったものは、もちろん保存継承がされるべきものである。しかし現在、より重要なのは、自己形成に関わっていた日常的な身体文化そのものの価値である。

 数百年以上にわたって継承されてきた日常における身体文化か、数十年のうちに急激に喪失されたことの意味は深刻である。21世紀を迎えた現在において、身体文化に対して明確な意識を持って臨む必要がある。そのことが、現在問題になっている様々な社会問題に対する対処法の根幹をなすと考える。

(斉藤孝『「甘え」と日本人』角川書店)




(注1)室町時代:1336~1573 貴族政治の時代
(注2)江戸時代:1603~1867 武家政治・徳川幕府の時代
(注3)連綿:長く続くこと
(注4)明治維新:武家政治(江戸幕府)から、天皇制に変わった時期。1866~1868年ごろ

(6)①絶滅状態にまで追い込まれているとあるが、何が絶滅状態なのか

(7)➁自己形成のプロセスとは、ここではどいうことか

(8)③これとはどういうことを言っているのか

(9)この文章で筆者が最も言いたいことは何か

 私は⾷べ物については好き嫌いが多いが、研究テーマや⼈間関係についてはあまり好き嫌いがない。ところが、いろいろな⼈と話をしていると、意外に好き嫌いがあるという⼈が多い。この研究は嫌いとか、この⼈は好きじゃないとかよく⽿にする。しかし、どんな研究にも得点を変えれば学ぶところは必ずあるし、⼈間も同様に、悪い⾯もあればいい⾯もある。やって損をするという研究は⾮常にまれであるし、つきあって損をするという⼈間も⾮常に少ない。
 科学者や技術者であるなら、発⾒につながるあらゆる可能性にアンテナを伸ばすべきで、そのためには、好き嫌いがあってはいけないき嫌いがあってはいけないように思う。研究の幅や、発⾒につながる可能性を⼤きく狭めて(注1)しまう。
 ところで、そもそも(注2)好き嫌いとは何だろうか︖
 ⾃分の研究分野は、理系であることには間違いない。しかし⾃分でも、理由があって理系の道を選んだとは思えない。単なる偶然の積み重なりの結果なのだ。
 「⾃分の好みや得⼿不得⼿(注3)で選んだ」とあとから⾔うのは、その偶然の選択に何らかの理由を与えないと、あとで悔やむことになるからだと思う。たとえば、理系の道を選んで思ったような成果を上げられなかったとき、「なぜ⽂系の道を選ばなかったのか」と思うような後悔である。違い過去にさかのぼっていちいち後悔していては、その時点の⽬の前の問題に⼒を注げず、前向きに⽣きていくことはできない。
 そう考えると、好き嫌いや感情というものは、偶然の積み重なりで進んでいく⼈⽣を⾃分なりに納得するためにあるようなものと⾔えるのではないか。好き嫌いや感情は、無意識のうちに、⾃分を守るために、⾃分を納得させるために、都合よく持つものなのだろう。
 感情や好き嫌いは元来(注4)⼈間に備わっているものであるというのは間違いないが、⼈間は、⼗分な理由がないまま⾏った⾃らの⾏動を、納得し、正当化する(注5)ためにも、感情や好き嫌いを⽤いる。⼈間は、他の動物にはない、そんな感情や好き嫌いの利⽤⽅法を⾝につけているのかもしれない。

(⽯⿊浩「ロボットとは何か⼀⼈の⼼を映す鏡」講談社による)


(注1)狭める︓狭くする
(注2)そもそも︓もともと
(注3)得⼿不得⼿︓得意不得意
(注4)元来︓初めから
(注5)正当化する︓ここでは、間違っていなかったと思う

(71)好き嫌いがあってはいけないと筆者が考えているのはなぜか

(72)筆者は、どうして理系に進んだにか

(73)筆者は、好き嫌いとは⼈間にとってどのようなものだと考えているか

 教育については、①ぜひ実現するといいと思うアイディアを持っています。
 それは、⼤学教育にかかる費⽤を⾦融機関が学⽣に貸し出した際、その債務(注1)の保証を国がするという制度です。要するに、銀⾏の教育ローンの国家保証制度。もちろん銀⾏の教育ローンそのものは今でもありますが、これを国家保証にすることがポイント(注2)です。
 すなわち、銀⾏にとってはノーリスク(注3)。貸出しをした学⽣が将来個⼈破産したり、ローン返済(注4)前に死亡したりしても、国が債務を保証してくれるなら積極的にローンを貸し出しますね。
 学⽣の親にも⼤いにメリットがあります。⼦どもの教育費負担の中でも、最後の⼤学は⾮常に重荷です。2〜3⼈の⼦どもを持った場合、40代、50代となった親に教育費負担が重くのしかかってきます。それを、もう親は払わず、⼦どもが払うことを当たり前にするのです。
 親が学費の⾯倒を⾒るのは⾼校まで。⼤学からは⼦ども⾃⾝が銀⾏から借りて、卒業後に⾃分で稼いで返済する、というのが当たり前になれば、親の⾦銭的、⼼ 理的負担は解消されます。そうすれば、もう1⼈2⼈産んでみようか、という⼈も増えるかもしれません。少⼦化対策にもなりますよ。
 私は10年前から明治⼤学で教えていますが、勤労学⽣(注5)の⽅が総じて授業に熱⼼です。なぜならコスト意識がはっきりしているから。
 ⼤学の費⽤はすべて親が負担しているのが、今の⽇本の⼤学⽣の⼀般です。しかしその状況は、親は⾦銭的につらいのに、肝⼼の(注6)⼦どもはコスト意識が薄いという問題を抱えています。苦労して⻭を⾷いしばって⼦どもを⼤学に出しながら、実は②「⼦どもをダメにしているかもしれないのです。
 もし学⽣が⾃分でお⾦を払っている意識を持てば、授業への参加率も上がり、元を取ろうとするでしょう。不真⾯⽬な教員には⽂句を⾔うようにもなります。授業の「単価」を計算して、それに⾒合った成果(注7)を上げようと努⼒し始めるでしょう。
 ⾃分で授業料を払うようになれば、2割から3割くらい、もっと熱⼼に授業に取り組むようになるのではないでしょうか。
 学⽣は、両親がお⾦持ちかどうかにかかわらず、試験で良い成績を修めさえすれば、お⾦の⼼配もなく、質の⾼い教育を受ける機会を持てるのです。家が貧乏(注8)で授業料が払えないから⼤学に⾏けない、なんてことはなくなります。

(注1)債務︓借⾦を返す義務
(注2)ポイント︓重要な点
(注3)ノーリスク︓危険がないこと
(注4)返済︓返すこと
(注5)勤労学⽣︓働きながら⼤学に通っている学⽣
(注6)肝⼼の︓もっとも重要な
(注7)成果︓得られた良い結果
(注8)貧乏︓お⾦がない

(1)筆者が①ぜひ実現するといいと思う理由は何か

(2)②「⼦どもをダメにしているとあるが、どういうことか

(3)筆者の考えにあっているものはどれか

 2009年は新聞が存続の危機に立った年として歴史に残るだろう。日本で毎日新聞・産経新聞が経営悪化となり、さらに世界で2番目に大きい朝日新聞社が中間決算でばくだいな赤字を発表した。原因は若者を中心とした新聞離れが進んだことと、それにより広告収入が減ったためだ。これは全ての新聞社に当てはまる。

 世界的にも情報源を得る手段としての新聞の地位は低くなっている。2005年の統計によると日本では情報を得る手段として新聞が89%、インターネットが44%だったが、韓国では当時既に新聞75.4%、インターネット65%とかなりインターネットが新聞に迫ってきていた。更にアメリカでは新聞とインターネットがそれぞれ約65.2%と65.3%で、インターネットが少し上回っていた。現在では更にインターネットの利用が増えて、それに伴い新聞が減ってきている。

 アメリカでは有名新聞社までが次々につぶれた。日本より広告収入に頼る率が高いからだ。(注1)ピューリッツァー賞を何度も受賞した優良新聞社もなくなった。リストラも進んでいる。ニューヨーク・タイムズ紙は不況に伴う広告収入減少により大幅な人員削減と賃金カットを実施した。その結果1992年に6万人いた記者が、今では約4万人にまで減っているそうだ。

 この危機を乗り越えるために新聞社はインターネット上のニュースを有料にする方針を次々に発表している。また職を失った新聞記者達がNPOを作ってニュースを(注2)配信するという「新ジャーナリズム」と呼ばれる動きも出てきた。ニュースを売って収入を得るほか、不足分は寄付に頼っている。アメリカはボランティアや寄付が盛んな国だ。NPOもそうした人々に支えられている。

 現在インターネット上に溢れているニュースも、元は新聞記者や放送記者達が時間をかけて取材したものがほとんどだ。だから新聞が衰えれば私たちは社会のことを知る方法がなくなってしまうだろう。私たちが現在読んだり聞いたりしているニュースもその報道機関が直接取材した物ばかりではない。足りないニュースは他の報道機関から買っている。少数のニュース源しかなければ真実を知るのが難しくなる。これは恐ろしいことだ。ニュースを得るために誰がお金を払うのか。ニュースの受け取り手か、広告主かそれともアメリカのように寄付か。何にせよこのまま新聞が衰退すれば報道の危機は新聞だけに留まらない。今こそ社会の指標である新聞を支えるシステムを創らなければならない時期なのではないだろうか。

(注1)ピューリッツァー賞:アメリカで最も権威がある優れた報道などに対して与えられる賞

(1)日本の新聞の状況について述べているのはどれか。

(2)新ジャーナリズムとは何か。

(3)著者は新聞が衰退するとどうなると言っているか。

 小説家で自作解説をする人がたまにいる。ぼくは『ちょっとな.......』と思う。なぜそんなに思うのかと言うと、一つは『ぼくの自由に読ませてよ』と言いたいからだ。もう一つは自作解説ができるほど言いたいことがはっきりしているなら、なにも小説などという回りくどい(注1)表現形式をとる必要はなかったではないかと思うからだ、はじめから評論を書けばよかったのだ。
 小説は言葉を使ってこの世界に似せたイメージを作る表現形式である、世界はそれ自身では主張を持たないから、ぼくたちは小説を『自由』に解釈でくる。それが小説を読む楽しみだ。ところが、評論はそうではない。古典的名著ともなれば評論でもさまざまな解釈が競われるこどがあえうが、ふつうは評論の主張ははっきりしている。『自由』に解釈すれば『誤読』となることが多い。
 では、ぼくたちはなぜ評論を読むのかと言えば、それは自分の知らないことやわからないことを、知りたいしわかりたいからだ。それが知的な虚栄心(注2)というもので、これがなくなったら精神的な『老人』である。精神的な『若者』は、友人が本を読んだと聞けば、たとえ自分が読んでない本であっても『読んだよ』と答えるものだ。そして、あわてふためいて(注3)本屋さんが図書館に行って、わかってもわからなくても一晩でそれを読んで、翌日には涼しい顔をして『そう言えば、あれはたいした本じゃないね』なんて言ってみるものだ、そんなふうにして、ぼくたちは教養を身につける。
 ぼくは『教養』という言葉を二つの意味でとらえている。一つは知識の量で、これは多ければ多いほどいい。しかし、これは少し古風な教養のとらえ方である、現代ではあまりに多くの情報があふれているからとても追いつけない。その上に過去のことまで知っていなければならないとしたら大変だ。もちろんそのための努力は大切だが、限りがある。そこで二つめの教養の意味が必要だと考えている。それは、物事を考えるための座標軸(注4)をできるだけたくさん持つことだ。『たくさん』とは言っても、ぼくたちの思考方法にはその時代ごとに流行があるから、これは無限というわけではない。ぼくは、その時代に必要な思考方法を身につけることを第二の教養、そして現代の教養と呼んでおきたい。この現代の教養を身につけるために評論を読むのである。

(石原千秋『未来形の読書術』による)


(注1) 回りくどい:直接的でなくわかりにくい
(注2) 虚栄心:実際以上によく見せたいと思う心
(注3) あわてふためいて:とてもあわてて
(注4) 座標軸:ここでは、基準

(71)筆者によると、小説は読者にとってどのようなものか。

(72)精神的な『若者』とはどういう人か。

(73)筆者の言う第二の教養とは何か。

 これは僕の個人的な意見だが、「盗み」と無縁の幸せは存在しないと思う。ものづくりでも「悩み」はとても重要で、悩みをどう解決するか、どう昇華 (注1)させるかが、作った成果、物の存在感や主張に直結する。
 その観点で言うと、最近の日本の製品には「悩み」が見えない。悩みに取り組まずに切り捨ててしまうからだと思う。日本人は「シンブル」に強いあこがれを持っているが、いつの頃からか「要素が少なくて単純なことがシンプルだ」という誤った思い込みを抱いてしまっている。だから重要なものを切り捨ててしまって平気なのだ。
そういう思いつきと勢いだけで作られた商品を「チューインガム商品」と僕は呼ぶ。作られたものが薄っぺらで、すぐに味がなくなって捨てられるからだ。
 日本人の多くは「日本文化の神髄(注2)はシンプルさだ」と思っているようだが、僕は完全には同意できない。日本文化にはいろいろな相反(注3)する要素が複雑に絡みあって、それらを生かしたまま歴史の中で洗練された結果、一見シンプルに見えているだけなのだ。その深い部分を理解できずに、切り捨てて単純化したものを簡単に製品にしているから味が出てこない。
 日本文化と同様に、切り捨てではなく洗練によってシンブルに見えるものは、ヨーロッパのブランド商品などにもよくある。内在していた相反する要素がうまく噛み合って(注4)いるから、シンプルに見えるだけなのだ。
要素が少なくて単純なものと、洗練によってシンプルに見えるものを比較すると,内包されている複雑さが全然違う。しかも後者には、作った人たちのいろいろな 悩みも見える。最初のうちはうまく隠されていて見えないが、使っているうちに「あ、こうやって悩んで、それでその結果こういう処理をして、それでこの製品ができてきたのか」ということがわかってくる。だから奥が深い商品が生まれ、使っていても色んな側面が次々と現れてくるので飽きが来ないのだ。
 悩みを避けて切り捨てた「もの」や「ひと」には、そういう面白みが存在しない。

(奥山清行『ムーンショットデザイン幸福論』による)


(注1)昇華する:一段と高度なものにする
(注2) 神髄:中心となる本来の性質
(注3)相反する:互いに対立する
(注4) 噛み合う:ここでは、ぴったり合う

(71)ここでの重要なものとは何か。

(72)筆者は、日本文化をどのようなものだと考えているか。

(73)ものづくりについて、筆者はどのようなことが必要だと言いたいのか。

 この数十年の変化の中で、もっとも大きく変わったものは何かと問われると、私は人生の選択肢が飛躍的(注1)に増え、さらにその選択をする自由度が高まったことではないかと答えます。
(中略)
 親が決めたレールや、こうあるべきだという社会通念(注2)は、極端に少なくなり、どんな生き方も肯定される、そんな時代になったと思います。各人が自分の責任において、自分の生き方を選ぶことができるようになったのです。
 ところが、①この状況が人を幸せにしているとは必ずしも言えないというのが現状です。選択肢の数の増加と同じだけ、“これでいいのだろうか„„”という迷いも増えました。迷って選択ができない、あるいは選択したけれど間違ったと思う„„。 そんな人たちが増えてしまったのです。何かを得ようとして選択したことで、何かを失ってしまったかもしれない。本当は別の幸せがあったのかもしれないのに、自分はそのチャンスを逃してしまったのかもしれない。本当の自分は、こんな自分じゃなかったのではないだろうか。
 他の人とくらべて、自分の人生が劣っているのではないか、失敗だったのではないかと考えてしまう。こうやって自分を追い込み、自分の人生に自信がもてなくなる。そんな人をたくさん生んでしまったのではないでしょうか。 ②生き方なんてこれしかないと言われたほうが、実はラクなのかもしれません。 その中で、精一杯生きれば良いからです。でも、生き方はいくらでもあると言われたら、迷うのは当然のことだと思います。
でも大事なことはやはり、何をするかではなく、どう生きるかなのではないでし ょうか。どんな選択をしようと、これが正解だなんてものは誰にも決められません。 決められるとしたら、それは本人がそう思い込めるかだけです。
 だとすると、本人が自分の選択が良かったと素直に思える、あるいはその選択がど うであれ、自分は良く頑張った、精一杯やったと心から思えることが大切なのでは ないでしょうか。
 人生の選択肢の多さに惑わされないで(注3)ください。いま自分が何をしているかで、自分の人生を判断しないでください。大切なのは、何をしているのかではなく、どう生きているかなのですから。どう生きるかは、いまからでもすぐに変えら れるのですから。

(高橋克徳『潰れない生き方』による)


(注1)飛躍的に:大幅に
(注2)社会通念:広く社会に受け入れられている常識
(注3)惑わされないで:ここでは、迷わされないで

(71)①この状況とはどんな状況か。

(72)②生き方なんてこれしかないと言われたほうが、実はラクなのかもしれませんとあるが、なぜか。

(73)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

以下は、ある漫画家が書いた文章である。
 僕はいままで数多くの漫画やアニメで未来をイメージしてきた。 未来を「想像」し、そこから作品を「創造」してきた。僕ににとって想像と創造はごく近しい、混じり合ったものだと言っていいだろう。
 では、イメージすること、想像することについて考えてみよう。僕は想像には二種類あると考えている。 可能性が希薄(注1)でも許される 「空想」 と、 角度の高い(注2)データに基づいた「予測」だ。
空想は幻想的(注3)な意味での夢見る世界。予測はやがてこうなるだろうという 現実の延長線上に 浮かぶものだ。 このふたつが自分の頭の中で組み合わせられ、 出来上 がっていくものがぼくにとっての「想像」だ。
 「空想」の中には途方もない(注4)こともある。子どもの時に考えていたこととなんら変わりがない、突 拍子もない(注5)ものも含んでいる。「夢」と言い換えてもい いだろう。しかし、夢や空想だけではどこかものたりない。そこで、現実の延長線上に ある未来についての予測が必要になってくる。しかし、空想が現実からかけ離れるばかりかといえばそうではないし、予測が必ず現実を言い当てるというものでもない。 どちらも、未来をイメージする=想像することのうちにあるのだ。
 (中略)
 僕は空想も予測も好きな少年だった。子どもの頃から「想像」することが大好 きだった。しかし、ぼくが「想像」をただの「想像」に終わらせず、作品を作るという 「創造」 へと結びつけてきたのはなぜだろう。 僕自身はあまり意識してこなかったこと だが、こうして考えてみると、やはり「何のためにえがくのか」という言 葉が浮かび 上がってくる。
 「想像」するだけなら一人でしていけばいい。あるいは、友人たちとのおしゃべりで 十分だろう。しかし、「創造」するためには、そこに「何のために」という強い動機が 必要なのだ。
僕が「想像」したことをもとに作品を「創造」することで、もしかしたら、その 作品をきっかけに何かが変わ るかもしれない。僕も人類の一人として、この地球がより よい方向に進み、幸福な未来へとつながってい いてほしい。
大げさなことはあまり言いたくないが、 大きな目的で、 「地球の未来のために」 僕は 作品をえがいている のかもしれない。

(松本零土「未来創造ー夢の発想法」による)


(注1) 希薄でも:ここでは、低くても
(注2)確度の高い:ここでは、確かな
(注3)幻想的:現実から離れている
(注4)途方もない:とんでもない
(注5)突拍子もない:常識から外れた

(71)空想と予測について、筆者はどのように述べているか。

(72) 筆者にとって、「創造」するとはどういうことか。

(73)筆者の考えに合うものはどれか。

 「奇跡のリンゴ」は無農薬の上に無肥料である。「奇跡」というのは普通では起こらないという意味だ。無農薬の米や野菜を作るには大変な努力が必要だそうで、完全な無農薬の作物を作ることはほとんど不可能に近いそうだ。ましてリンゴは決して無農薬では作れないと言われていた。ところがそれに挑戦した1人の日本人がいた。木村秋則さんと言う。彼は書き留めた資料が箱いっぱいになるほど研究熱心だった。虫を探すためにも毎年様々な工夫をした。酢をまいたこともあった。しかしその全てが無駄であった。いくらやってもリンゴが実らなかったのだ。リンゴが収穫できないので無収入になり出稼ぎに出たこともあったそうだ。当然家族の生活はどん底だった。周りから馬鹿だとか迷惑だとか言われ、親類からもあきらめろと言われた。そんな苦しい生活の中で家族だけが彼を支えてくれた。しかしいくら工夫してもリンゴはできなかった。絶望の中で偶然森の土が自分の畑の土と全然違って柔らかく、木々が生き生きしていることに気づいた。そこで森の土を調べて同じような土を作ろうと、雑草も生えたまま、自然のままにした。すると畑の土に(注)微生物が住むようになって、土が柔らかくなり、森と同じようになった。そして翌年とうとうリンゴが実をつけたのだ。

 彼のリンゴは味が濃いそうだ。リンゴは切ると直ぐに色が変わる。しかし彼のリンゴの色はそのまま変わらないそうだ。さらに腐らないとさえ言われている。だから当然その人気は高く販売されるやいなやわずか10分ほどで売切れてしまうそうだ。誰もが買えるわけではない。もし抽選に当たれば買うことができる。1個300円。ほかのリンゴに比べて決して高くない。もっと高くても買う人は大勢いると思うのだが彼は決して高く売ろうとはしないそうだ。今ではリンゴ作りの他に農業指導や講演会、本の出版など忙しく過ごしているそうだ。

 私たちは彼が経験した信じられないほどの貧乏生活や、数え切れないほどの工夫や努力、挑戦し続ける強い気持ち、そして最後に訪れた成功などに心を引かれずにはいられない。そしてそれを他の人に知らせたくなる。私も彼の話を書いているからにはその1人であることを認めざるを得ない。

(注)微生物(びせいぶつ):目に見えないほど小さい生物

(1)「奇跡のリンゴ」とはどんなリンゴか。

(2) 「奇跡のリンゴ」を生んだ土はどんな土か。

(3) 「奇跡のリンゴ」の話を聞いた後の著者の気持ちはどれか。

 以下は、目標に向かう姿勢について、ある将棋のプロが書いた文章である。
 勝った将棋と負けた将棋。どちらかがより忘れられないかと問われれば ----どちらもあまり覚えていない。勝った喜び、負けた悔しさともに体内に残らない。必要 でないと感じられることはどんどん忘れていってしまう性質なのだ。
 もちろん、何年の誰との将棋について語らなければならないということがあれば、記憶の糸 口(注1)さえ見つかれば、いつか対戦したそのとき手順(注2)をスラスラと 思い出すことができる。
しかし、通常はそんなことはしない。それを思い返した ところで、先へとつながるものだとは思えないからだ。
 必要なのは、前に進んで いくこと、そのための歩み(注3)を刻んでいくことだ。
これからの道のりも長い。それを進んでいくために必要とされるのは、マラソン選手のような意識とで もいうのだろうか。一気にダッシュするのではなく、瞬間的に 最高スピードを出そうとするのでもなく、正確にラップを刻んでいくことだ。1キロを4分で走るとしたら、次の1キロも、そのまた次の1キロも......と、同じようにラップ(注4)を刻むこと。それを意識的に続けていくことだ。
 それには、「長い距離をずっと走り続けねばならない」と考えるのではなく、すぐそこの、あの角までを目標に、そこまではとりあえず走ってみようといった小さな 目標を定めながら走るのがいいと思う。
ゴールまであと200キロあると言われたら、たいていの人はイヤになる。走るのをやめてしまうだろう。しかし、あと1キロだけ、あと1キロ走れば......と思えば続けられる。この1キロ、今度の1キロ......と繰り返すうちに気がついたら 200 キロになっていることもあるだろう。そうなっていることを目指したい。
 歩けない距離は走れない、という話を聞いたこともある。なるほど、たしかにそうだと思った。歩けるかどうかは、スピードとか記録とかの前にベース(注5)となる最低限の保証だ。まずはその距離を歩いてみる。そこで無理だと思うなら、走る など到底できないことだ。他の誰かが隣を駆け抜けていったとしても、自分には無 理なことなのだ。だから、まずは歩いてみる。そして、歩けそうならば走ってみ る。急ぐ必要はない。同じペースでラップを刻みながら行けばいい。それは、無理 をしないことだ。自然にできることを続けていくという健全さ(注6)なのだ。

(羽生善治『直感力」による)


(注1)糸口: きっかけ
(注2)手順: ここでは、試合の進み方
(注3)歩みを刻む: ここでは、一歩を確実に進める
(注4) ラップを刻む: ここでは、一定の距離を同じスピードで走る
(注5) ベース:土台
(注6)健全さ: ここでは、当たり前で、いいこと

(71)過去の対戦に対して、筆者はどのような態度をとっているか。

(72)「長い距離をずっと走り続けねばならない」と考えるのではなくとあるが、その理由は何か。

(73)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。