勝ち組、負け組って何だろう。
 春先は入学や就職(しゅうしょく)など、進路が決まったり決まらなかったりする季節である。
 ゲームのルールがあって明確だ。しかし、われわれ「人」の勝ち負けに、世界共通の基準などあるのだろうか。勝ち負けーーつまり成功の基準は、人によりさまざまなはずだ。同じ一個人でも時と場合によっては、違ってくる。
 (中略)試験は合格が「勝ち」で不合格は「負け」。資格試験であれば、取得できれば成功、できなければ不成功。とてもわかりやすい。ただ、これも試験そのものの基準であって、人を組分けする基準ではない。
 受験者はそれぞれ個別の事情や目標をもっている。受験に至るまでの、そのような一切(注1)を評価するのは本人であり、他人がともかく言う問題ではない。では、どうしてまわりの評価や基準が気になるのだろう?それは、自分の中で成功の基準を持っていない、意識していない人が多くなっているからではないか。毎日の生活の中で、何ができればいいのか、どう感じることが幸せなのかを、ちっとも考えてなくなっているからではないか。自分の基準がないから、まわりを気にする。他人と比べるから、勝ち・負けの発想に傾いてしまう。しかもその際、他人の基準を使うから、どうしたってストレスがたまるし、勝つより負けるほうが多くなる。
 私自身、30代までは、まわりの評価を基準にしていた。そしてあるとき「一生こうして生きるのか?」と考えたら、そもそも「自分はこう生きたいのか?」を、まじめに考えたことすらないことに気づいた。
 その後、会社を辞め、独立もしてみた。再就職(しゅうしょく)も何社かした。だが、たいして変わらなかった。今にして思えば、そのとき自分がやったことは、「まわりを変える」ことであって、肝心(かんじん)(注2)①「自分を変える」ことではなかったからだ。40半ばを過ぎ「自分の成功基準を持つ」大切さに気づいた。生活の中に数々の成功基準を持つことで、一日の生き方は、どんどん意識的なものになる。例えば、朝早く起きれば成功、その後ジョギングをして、道すがら(注3)何か発見があればこれまた成功、気持ちよく仕事に行けば大成功、夜仲間と飲めば大大成功!といった具合だ。
 われわれは②われわれ自身の「ゲーム」の主役だ。ルールは自分で決めて打ち込め(注4)ば、毎日はスリリング(注5)で楽しいものになる。

(三好隆宏「私の視点」2008年3月12日付けの朝日新聞朝刊による)

(注1)一切:すべて
(注2)肝心(かんじん)の:もっとも重要な
(注3)道すがら:途中で
(注4)打ち込む:何かを一生懸命する
(注5)スリリング:わくわくすること

(71)①「自分を変える」こととは、どういうことか。

(72)②われわれ自身の「ゲーム」が意味していることは何か。

(73)筆者がこの文章で一番言いたいことはどんなことか。

 この文章は、取材(記事などを書くために、人から話を聞くこと)について書かれたものです。 最も大切なことは、自分がその相手から聞くべきことを知っておくことである。これはあまりにも当たり前のことで、人に話を聞こうとする場合の当然の前提だから、とりたてて注意を払うべきことではないと思われるかもしれない。しかし、私にいわせれば、これ以上に本質的に大切なことは何もなく、あとは大部分が粗末な(注1)テクニック論である。
 「問題を正しくたてられたら、答えを半分見い出したも同然。」とよくいわれる.これはまったく①____。同様に、聞き取りに際しても、聞くべきことがわかっていれば、半分聞き出したも同然なのである。
 最近私は、人に取材するばかりでなく、人から取材されることも結構多くなった。②それでわかったことは、自分で何を聞くべきかが充分わかっていないで人にものを聞く人間がいかに多いかである。
 「いかがですか?」「ご感想をちょっと........」と水を向ける(注2)だけで、相手が何かまとまりのあることを当然にしゃべってくれるものだと思い込んでいるおめでたいジャーナリストがあまりにも多いのだ。まるでこちらがラジオかテレビのような機械で,「きっかけの一言」というスイッチを入れると、あとは自動的に番組が流れ出てくるものとでも思っているかのようだ。
 こういう人が多くなったのも、テレビの悪影響だろうと思う。テレビのインタビユーというと、実際、一言水を向けるだけで、べらべらまくしたてる人が大部分なのだ。世の中にはしゃべりたがりの人が多いのも現実だが、テレビの場合は、編集をしたり、事前の打ち合わせをしたりしているから、しゃべたがりでない人もしゃべりたがりのように見えてしまう.私にしても、ほんとは非常に無口の人間なのだが、テレビを通してしか知らない人はよくしゃべる男と思っていることだろう。そう思い込んでいる人がジャーナリストの中にもいて,そういう人が私を電話取材すると妙なことになる。
 「○○について、ちょっとご感想をうかがいたいですが」
 「はい」といったまま私は黙っている。先方は、それだけで当然私がしゃべり出すのだろうと思って、やはり黙って待っている。しばらく奇妙な沈黙がつづく。やがて、先方がどうもスイッチがちゃんと入っていないらしいと考えたのか、もう一度スイッチを入れ直す。
 「○○について、ちょっと感想をうかがいたいんですが」
 「はい。どうぞ」と私は答える。「どうぞ」といわれてはじめて先方は、水を向けただけでは足りなくて、なにか質問をしなければいけないのだということに気がつく。
(中略)
安易な問い方をし、それに安易に答え、その安易な答えに満足して問答を終わるという最近のテレビインタビユー的風潮に私は反発しているので、いいかげんな質問者にはわざと意気悪く質問を返し続けることがよくある。はじめの問いがいいかげんでも、自分の中に問うべきものをしっかり持っている人は、質問を返されたときすぐにきちんとした質問で切り返すことができるものである。しかし、それを持たない人はまともな質問がついにできない。
(注1)粗末な:重要に扱わない
(注2)水を向ける:相手が話し始めるようにすること

(71)①に入れることばとして適当なものは何か。

(72)②「それで」を別の表現で言うと、この場合、次のどれが近いか。

(73)この文章で筆者がもっとも言いたいと考えられることは何か。

 最近、日本の大相撲の世界では画国出身の力士(注1)がたくさん活躍している。力士の最高地位である「横綱よこづな)」は、現在2名いるが、両者ともモンゴル出身だ。横綱に次ぐ地位である「大関おおぜき)」。さらにその下の「関脇せきわけ)」「小結こむすび)」などの地位にも、モンゴルやブルガリア、エストニア、グルジアなどの出身の力士が名前をつら)ねている。体は小さくても、足腰の強さとスピードで面白い相撲を見せてくれる力士もいれば、大きな体と怪力(注2)を生かし、豪快な(注3)相撲で観客を楽しませてくれる力士もいる。しかし、これだけ外国人力士が活躍し、面白い相撲を見せてくれているにもかかわらず、相撲ファンの中から多く聞かれるのが、「日本人の強い力士がいないと面白くない」という意見だ。相撲評論家や相撲好きだと語る有名人の中にも、同じことを言う人がいる。私は、①これを聞くたびに違和感(注4)を覚える。
 確かに、今、上の地位に日本出身の力士の数が少なくなっているというのは事実だ。しかし、相撲界に入って一生懸命、稽古けいこ)をして地位を上げてきた、というのは、日本出身であろうと外国出身であろうと同じはずだ。文字通り、同じ土俵どひょう)(注5)に立つ「力士」なのに、どうして、「外国人」「日本人」という線引きをするのかが、私にはわからないのだ。相撲を面白くしてくれる力士なら、出身なんてどうでもいいじゃないか。
 もう一つ、よく聞かれるのが、「外国人力士だから日本の相撲は本当にはわからない」という言葉だ。このように「外国人力士」と、人括りひとくく)(注6)にしてしまうのは、実は「日本人はまじめ」とか「アメリカ人は陽気」などと、ステレオタイプ化して(注7)ラベルをはる、ということにも通じているように思う。もし、あなたが違う国の人と話していて、「日本人は冷たい。だから、あなたも冷たいひとですね」と決めてつけられたら、いやだと思うのではないだろうか。
 人括りにして語られると、一見わかりやすい気がして、そう思い込んでしまう。しかし、これは危険。こういう「人括りにして語られていること」に出会ったら、意識的に疑ってかかる。そういうくせをつけておいたほうがいい。
 「外国人力士」と、人括りに考えるのではなく、「朝青龍あさしょうりゅう)」「把瑠都ばると)(注8)と考えるようにしてみよう。人によってはられたラベルは簡単に信じないことだ。
(注1)力士:相撲を取ることを職業としている人
(注2)怪力:ものすごく強い力
(注3)豪快な:力強くて、見ていて気持ちのいい様子
(注4)違和感:「そうじゃない」と賛成できない気持ち、違うと思う気持ち
(注5)土俵:相撲を取る競技所。土を盛りあげた上に、俵で円が作られて
(注6)人括り:違う種類のものも一緒に一つにまとめること
(注7)ステレオタイプ化する:考え方や物の見方を型にはめること。決め付けること
(注8)「朝青龍」「把瑠都」:力士の名前(2010年1月現在)。朝青龍はモンゴル出身、把瑠都はエストニア出身

(71)筆者の考えに合っているものはどれですか。

(72)筆者の考え方に合っているものはどれですか。

(73)この文章で筆者がもっとも言いたいと考えられることは何か。

 大学生や大学をめぐっては「学力低下」で今の大学生は九九さえできない 的な言い方が大学の教師の側からされて久しい(注1)。そういう人たちはえ てして戦前の旧制高校的な「教養」を「教養」の定義(注2)としているのだ が、「まんがを教える大学」の登場はそういう人たちからすれば末期的現象な のかもしれない。まあ、それも一理ある。何しろぼくが「教授」なのだ。
 でもね、四年を現在の大学で過ごした新米教師は思う。大学というのは思 いのほか、可能性に満ちている場所ではないか、と。(中略)
 そしてこれはとても大切なことだが僕は大学で教えるのは(A)のである。
 「論壇」にいたころ(注3)、大学の先生の肩書きがある人とよく対談な どで話すことがあったが、彼らは一様に(注4)、教えることがあまり好きで はなさそうだった。中にはゼミを放り出して国会議員になった人も何人かいた が、まあ、そうなんだろうなとその時話したときの印象からは思う。
 そもそもぼくの大学で、ぼくが教えていて幸福なのは、学生たちが心から「教わりたい」 と思っているからだ。当たり前だが「教わりたい」学生に「教える」ことがお もしろくないはずがないのである。この一点が、多分、ぼくと、大学生の学力 についてただ嘆く(注5)だけの先生たちとの間にある決定的な違いではない か、と感じる。
 東大や京大に行って優秀な成績で卒業して官僚(注6)になりたい、など という特殊な生徒はともかく、たいていの子は高校生の時点で自分の将来像と 受験する大学を深く結びつけて考えることはほとんどしない。「文系」「理 系」に分かれはしても、模試の偏差値(注7)と相談しつつ、入れてくれそう な学部や学科を一通り受験してみる、というのが昔も今も普通であるはずだ。 ぼくが非常勤で教えていたけっこう名門の女子大でさえ、「英文科」(今は名前が変わったけれど)は「英会話をやるのかと思っていたら英語の小説の研究 をするので驚いた」と真顔で言っていた女子大生がいた。(中略)
 高校生の時点での「やりたいこと」と「自分の思い描く将来」そして、そ の二つを結びつける具体的な手段としての「大学で勉強したいこと」、この三つをきちんと結び付けて受験しろ、と高校生に言うのは簡単だが 実際にはとても難しい
(注1) 久しい:長い時間がたっている
(注2) 定義:意味をはっきりと示すこと
(注3) 「論壇」にいたころ:筆者が大学教授になる前に評論家をしてい たころ
(注4) 一様に:全部同じように
(注5) 嘆く:非常に残念がる
(注6) 官僚:国の上級の役人
(注7) 模試の偏差値:模試試験の結果をもとに受験者の能力を示した数 字のこと

(71)(A) に入れるのに最も適当な語彙はどれか。

(72)「実際にはとても難しい」とあるが、筆者はその理由をどう考えているか。

(73)筆者の大学に対する考えにあっているものはどれか。

 これは、フランスで実際にあった話である。パリのある下町に、たいへん欲 (注1)の深い肉屋がいた。毎日の食事や衣服を節約したり、女房にまでケチで とおしていた肉屋は、たいへんな財産をたくわえているというのでも有名だった。
 ある日、その肉屋に、12歳ぐらいの女の子が肉を買いにやってきた。50 0フランの代金を払うという時になると、その女の子は「しまった。お金をわ すれてきちゃった。おじさん、あとでお金もってくるから、これちょっと預か って」といって、もっていたバイオリンをその肉屋にわたしていった。彼は、 何気なく、そのバイオリンを店の隅のほうに置いておいた。
 さて、それから30分くらいすると、一人の老紳士が、肉を買いにやってき た。1キログラムの牛肉を買い、代金を支払って店をでようとした時、その老 紳士が、店の隅にたてかけてあるバイオリンを見た。それを手に取って、じっ くり見てから、大声でいった。「このバイオリンはすばらしい。ストラディバリウスという世界的な名器だ。50万フランで買いたい。ぜひゆずってくれま せんか」と熱心に肉屋に頼むのだ。
 だが、肉屋にしてみれば、自分のバイオリンではない。売るわけにはいかな い。そこで、肉屋は、持ち主の女の子に話して自分が買い受けてからこの老紳士に売ろうと考え、「明日の9時にもう一度ここへ来てください。おゆずりし ましょう」といって、その老紳士を帰した。
 例の女の子は、すぐもどってきた。肉の代金を支払い、バイオリンを受け取って帰ろうとした。
 「ねえ、そのバイオリン、①おじさんに売ってくれないかね。あまりよいバ イオリンじゃないけれど、うちの子もバイオリンをこれから始めるので一つ欲 しいんだよ」 女の子が、しぶしぶ売ってもよいという返事をした時、肉屋は「しめた。女 の子をだました」と内心大喜びである。彼は5万フランでそのバイオリンを彼 女からゆずり受けることに、まんまと成功した。先ほどの紳士に、50万フラ ンで売れば、45万フランの儲けだ。かれが喜んだのも当然だ。
 肉屋は、その女の子をだまして悪いと思ったのか、先ほどの肉の代金を返し てやった。彼の良心が、子どもをだますことをよしとしなかったのであろう。 肉屋は、紳士のやってくるのを待った。だが、その老紳士は翌日の9時になっ ても やってこなかった。老紳士と女の子による計画的なサギ(注2)であったのであ る。
サギにあう人たちの中には、この肉屋のように、一攫千金を夢みる、けちな 人、欲の深い人が多い。子どもをだまして、45万フラン儲けようという” 欲”が、物事を冷静に見る目を失わせてしまったのである。
(浅野八郎「不思議な心理ゲーム①」青春出版社による)
(注1)欲:お金や物などを欲しがる気持ち
(注 2)サギ:人をだまして、物やお金を手入れること。

(71)①おじさんとはだれか。

(72)肉屋についてこの文章からわかることは何か。

(73)この文章で筆者がいちばん言いたいことは何か。

 児童書の編集者から、「小学生向けの“友達との付き合い方”の本が売れ ているんですよ」と聞いた。
 子供のいない私には何のことかよくわからなかったのだが、書店に行ってみると、確かに、「仲間」とか「友達」と表紙に書かれた本がいっぱいある。 かわいらしいイラストがふんだんに(注1)使われた本には、「はじめて 話しかける時には」「ケンカしたときにメールで仲直りするには」など、友達 づき合いに関するありとあらゆるアドバイスや情報が書かれていた。絵の感じからして、主に女子が読むのだろうか。
 「いつの時代も友達って大切なんだな」と思いながらも、「でも、( A )」 と少し複雑な気分になった。
 私自身も子供のころ、同じクラスの親友とうまくいかなくなって悩んだもあったが、それを解決してくれる本はなかった。「あのときはどうしたんだっ け」と考えてみたが、思い出せない。
 なんとなくうやむや(注2)になり、そのうち別々の中学に進んだのでそのままになった気がする。 ただ、今でもその友達とは、年賀状やメールをやり取りする仲だ。つまり、①時間が解決してくれた、というわけだ。 それに比べると今の子供たちは、問題をその場ですぐに解決しようとするのだろうか。気になる子にはすぐ話しかけて、ちょっと気まずく(注3)なったらすぐにメールで解決。「まあ、いいか」とほうっておくことはできないの かもしれない。
 そういえば、診察室にやって来る人の中にも、「私の問題を解決するのに役立つ本を紹介してください」と言う人がいる。「時間を無駄にしたくないん です。病院の帰りに本屋さんに寄って買いますから、心理学の入門書を教えてください」と“前のめり”(注4)になる人に、「そのあせる(注5)気持ち が一番いけません」と言いたくなることもある。
 あたりまえのことだが、世の中のことや人生の問題には、本を読んですぐ 解決できることと、できないことがある。本は、「へー、こんな考え方もあるのか」とあくまで参考程度にして、その通りにやったらなんでも解決、と期待 し過ぎないほうがいい。
 “友達本”を読む小学生たちはどうなるのだろう。「これを試してうまくいかなかったらもうおしまい」などと思わずに、ちょっと楽しむくらいの気持 ちで読むならいいのだが。たくさんの本の山を前に、書店で考え込んでしまっ た。
(注1) ふんだんに:非常にたくさん
(注2) うやむや:あいまい
(注3) 気まずい:お互いの気持ちがうまくあわない
(注4) 前のめり:前に向かって傾くこと
(注5) あせる:早くしようと気持ちが急ぐ

(71)( A )に入れるのに最も適当なものはどれか。

(72)①「時間が解決してくれた」とあるが、ここではどういうことか。

(73)筆者がこの文章で一番言いたいことはどんなことか。

(  ①  )

この言葉は私のオリジナルです。この考え方にたどり着いたのは38歳のときですが、その頃から努力することにたいして抵抗感がなくなり、とても生きやすくなりました。
  私たちはなぜか、中学、高校生のころ頃に「努力する姿」を人に見せることをやめてしまいます。試験前のガリ勉(注1)や運動会前の徒競走ときょうそう)もう)練習(注2)などが、人に知られると気恥ずかしくなってしまうのです。 その心境は複雑です。まず結果が出なかったとき「あいつ、あれだけやってダメだった」とバカにされるのを恐れます。結果が出ても「あれだけ準備すれば当然だ」と評価が下がるのを恐れます。他者の評価を気にし始めると、いずれにせよ努力を隠すに越したことはない(注3)わけです。 それは社会人になっても同じです。得意わざ)について「よほど努力しているのでしょうね」とほ褒められても、「たいしたことはしていません」と②自分の努力をわざわざ否定してしまったりするわけです。  しかし、この「謙遜けんそん)して努力を隠す対応」はとても危険です。なぜなら、努力しなくていいことへの言い訳になる一方で、努力を「かっこう悪い」とする無意識のバリア(注4)になりかねないためです。
  もちろん、努力すれば、すべてがなんとかなるわけではありませんが、努力なしでは何も始まりません。そのためには「努力」という言葉を生活に積極的に取り入れ、そのプロセスを楽しむ仕組みをつくらなければなりません。
  そして、努力を客観視するための測定方法が「時間」なのです。
  努力をする、しないはあくまで主観ですが、その分量を時間換算する仕組みを取り入れれば、自分がどこまで努力をしたのか、わかりやすく管理できるようになり、堂々と(注5)「〇〇については何年間やってきた」と言えます。
  例えば、私はよく「文章を書くのが速い」と言われますが、その場合にこう返すのです。「大学卒業から16年間、独立するまで、文章で顧客こきゃく)(注6)にリポートを作る仕事でしたから速くないと困ります」と。
  努力を時間で測定すれば、時間が有限だからこそ、何を努力するのか自分で考え、決めなければいけません。そうすれば、結果はあとからついてくる、という気持ちになれるま魔ほう法の言葉なのです。

(勝間和代「勝間和代の人生を変えるコトバ」2009年4月11日付朝日新聞による)

(注1)ガリ勉:成績を上げるために勉強ばかりする様子
(注2)もう猛練習:一生けん懸めい命練習すること
(注3)隠すに越したことはない:隠したほうがいい
(注4)バリア:障害となるもの
(注5)堂々と:自信のある様子で
(注6)こきゃく顧客:大切な客

(71)( ① )には、筆者の人生にえい影きょう響を与えた言葉が入る。それはどれか。

(72)②自分の努力をわざわざ否定してしまったりするのはなぜだと筆者は述べているか。

(73)筆者は「努力」についてどのように述べているか。

 豊富な水に恵まれている日本で生活していると21世紀は石油ではなく水戦争が起こるなどと言われてもぴんと来ないだろう。地球には約14億立方キロメートルの水があるが、その約98%が海水なので実際に利用できるのは氷河や土の中の水を除くとわずか1%にしかならない。現在多くの国が水不足で困っている。世界の人口は約68億人、2025年には80億にもなるそうだ。対策を立てなければそれらの国だけでなくアメリカを始めヨーロッパ・アジア各地にまで水不足が広まるだろう。飲み水だけではない。水は作物を作るのにも必要なので食糧危機も起きる恐れがある。

 シンガポールは最も水対策に力を入れている国である。以前は国内で使用する水の50%以上をマレーシアから買っていた。しかし以前の100倍の水料金の値上げを要求されたのをきっかけに自国で水を確保することにした。現在水の再利用、海水の淡水化、雨水の回収などを含む様々な計画を立ち上げて、世界中の企業や研究所を招いて事業を始める。将来90%の水を自国で供給できるようにするとともに、得た技術を世界に売り出して水ビジネスで莫大な利益を得ようと計画している。

 水ビジネスは飲料水のペットボトルから家庭用浄水器、水道や下水道の設備、海水の淡水化装置など色々あって、市場は何十兆円にもなる。現在巨大メジャーのヴェオリア(フランス)、スエズ(フランス)、テムズヴォーター(イギリス)が50か国以上で事業を展開していて市場の70~80%を握っているそうだ。メジャーは施設の建設から、水の給水、料金の徴収、排水の処理などの管理・運営の全てを行っている。日本は水を浄化するときに使う「膜」やポンプなどの技術では一流だが、それだけでは水ビジネス全体の1%にもならない。ビジネスとしてはメジャーのように水の製造から販売までを含めた事業を売り込む必要がある。巨大メジャーには歴史があるが日本では水事業は公共団体がするべきだと言う考えがあって、ヨーロッパのようにビジネス化されなかった。2002年にやっと民間に開放されたのだから、施設の管理・維持の経験が不足している。これが技術がありながら日本がメジャーに遅れを取っている理由だ。日本の商社が関係した中東産油国での海水淡水化事業も、ほとんどが水メジャーとの共同プロジェクトである。ついにヴェオリアが日本の浄水場の運営や下水処理場の管理を始めたことも不思議ではない。日本の水ビジネスの遅れを取り戻すためにはかなりの努力が必要である。

問1 世界の水の状況について述べているのはどれか。

問2 水ビジネスについて述べているのはどれか。

問3 本文の内容と合っているのはどれか。

 小説家になりたい人には「好きな作家のものを全部読む」という読書法をすすめる。好きな、というのは、自分に合っている気がして読みやすく, しかも楽しいというものだ。
 いろんな作家をちょっとずつ読む、というのでは、あまり身につくものがない。ベストセラーになっている話題作をせっせと追いかける、というのはもっとよくない(注1)
 ベストセラーになる小説は、とりあえず何かいいところがあって売れているのだから、読めば参考になるではないかと言うかもしれないが、それを読んで参考にしている人がたくさんいる、ということなのだ。みんなが狙っている方向で、自分もやってみるというの では、目立つこともないわけである。
 (中略)
 ひとりの作家(あなたにとって、不思議に肌合(注2)いがよくて楽しめる小説を書く人)の全小説を読んでみるのは、知らず知らずのうちに、その作家の「小説作法」を感じ取ることである。この人は小説を、このように構成するのだ、そこが心地(注3) いいの だ、とわかることである。この人は人間心理を、このように描写する(注4)。この人の社会観はこうである、なんてこともわかる。
 ②それがわかれば、似たようなものを書くところまであと一歩、なのである。特別にマネ して書こうと思っていなかったとしても、書くものは自然と,その作家の作風(注5)と 似たものになり、初心者が書いたにしては完成度が高いものになるだろう。
 こう反論する人がいるかもしれない。小説を書いて世に発表したいという願望は、自分というものを世間に知らしめたい(注6)ということであって、つまりは自己表現状から出てくるものだ。それなのに、他人の作品をマネているのでは、自分の表現にはならないのではないか。
 自己表現状のことは、確かにその通りである。しかし、慌てないで順に段取りを踏んで いこうではないか。いきなり自分らしさを出したいと考えるのではなく、まずは世間が振り向いてくれるレベルのものが書けるよう、上達する必要があるのだ。
 私の書くものには価値があるのだから、世間は注目しなければならない、と思い込んで しまう人が案外いるのだが、それではなかなか読んでもらえない。
だから、まずはうまく書けるようにならなければいけない。
 そのための訓練として、ある作家を熟読(注7)しているというのは、大変に有効なので」ある。

(清水義範『小説家になる方法』による)


(注1) ベストセラー:ここでは、最も売れている本
(注2) 肌合いがよい:ここでは、自分の感覚に合う
(注3) 心地いい:快い
(注4)描写する表現する (注5)作風:作品に表れた特徴
(注6) 知らしめたい:知らせたい (注7)熟読する:意味を考えて、よく読む。

(71)もっとよくないとあるが、なぜか

(72)それとは何か

(73)筆者によると、小説家になりたい人がまず目指すべきことは何か

(1)

 かつての石器時代のことを想像してみよう。このような人間の集団は、大きな洞穴か何かをみつけて、そこを住みかにしていたであろう。そのような場所で生まれた子どもたちは、まわりにたくさんの人々を見たはずである。

(中略)

 たぶんその時代には、だれも子どもを教育しようなどとは思っていなかったろう。子どもたちがうるさかったり邪魔だったりしたら、大人たちはどなりつけて追っ払ったかもしれない。子どもたちはそのようなことから、何をしてはいけないか、どうしなくてはいけないかなど、生きていくうえで大切なことを、自分で学習していったのだと思う。そして、それを学んだことに、①ある種の満足感をおぼえていたのではなかろうか?こういうのが、人間という動物における学習の遺伝的プログラムの本来の姿なのではないだろうか?

 今、世の中はたいへん「進歩」して、「個人」が大切にされ、プライバシーが尊重され、それぞれの家族が団地のドアの中で隔絶されて生活している。学校へいっても、つきあえるのは同じ年齢の同級生ばかり。先生たちは大人の男や大人の女としてではなく、「先生」として生徒に接する。子どもたちは何が学習できるのだろうか?石器時代には十分に学習できたことを、今はほとんど学習することができなくなっている。それは、人間という動物として➁大人になっていくための遺伝的プログラムが具体化されないということだ

 大学というところは、じつは石器時代によく似ている。18歳から22歳という、たった四年の差とはいえ、性的にも精神的にもきわめて変化の大きい年代の学生がたくさんいる。男もおり、女もおり、キャラクターも経験も能力もみんなちがう。部活(クラブ活動)では先輩後輩がいる。先生も若い人から定年近く人まで、これまたキャラクターも何もみなちがう。事務職員の人もそうだ。小さな子どもや赤んぼこそいないけれど、ある意味ではこれは石器時代の洞穴の中の状況に似ている。そこで学生は、人生にとって大切な、じつにさまざまなことを学習できるのである。そして③それによって、ちゃんとした大人の人間になる遺伝的プログラムが具体化されうるのだ。

 講義で聞く知識などは、一時的なことである。この技術革新の速い世の中では、大学で習った知識などすぐ古くなってしまう。しかし人とのつき合いかた、勉強のしかたなどというものは、一生役に立つ。大学という石器時代の中では、その気になればそれを十分に学習することができる。

(日高敏隆「人が育つ大学」『大学活用法』岩波書店)

(1)①ある種の満足感をおぼえていたのではなかろうか?とあるが、どのような満足感なのか

(2)➁大人になっていくための遺伝的プログラムが具体化されないということだとあるが、どういうことか

(3)③それによってとあるが、何によってか

(4)筆者は「ちゃんとした大人の人間になる」ためには何が必要だと考えているか

大学の話をするのに、筆者はなぜ石器時代を例に出したのか