短文
(1)
 情報社会、あるいは情報化社会と言ってもいいですが、そこで懸命に生きていこうとすると、まず出てくる悲鳴があります。つまり、あまりにも多くの情報があって、その中のどれが本当なのか、何を選んだらいいかわからない。今、流行っているものの情報に熱心であればあるほど、世間で流行っていることを知らないと自分が遅れるんじゃないか、という焦りみたいなものが人間を突き動かすのが情報化社会の特徴です。

(45)筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(2)
 以下は、「書くこと」について述べたものである。
 「思ったこと」や「考えたこと」という抽象的な存在が文字という具体的な存在に変化した瞬間、その筆者は自分自身の「思ったこと」や「考えたこと」を、直接、自分の目で「見た」ことになる。つまり、客観的に「観察」することになるわけだ。「書くこと」は「読むこと」。自分の文章を読みながら書き進めるのが、「書く」という作業なのである。観察はほとんど必然的に「批判」のこころを呼び起こす。「思ったこと」や「考えたこと」の後きや甘さを、書いた瞬間に思い知らされるのである。

(46)筆者によると、「書くこと」によってどうなるか。

短文
(3)
 昔と比べてモノが売れなくなり、広告の働きも悪くなっていることから、表現の面白さや新奇性ばっかりに走ってしまう。。。要は、本来、最も大切であるはずの消費者心理のツボを十分に突ききれていない、分析しきれていない、いわば表面上の、表現にこだわった広告が増えているように感じます。
 消費者心理は「本質」、表現は「伝え方」とも言い換えられますが、最も大切な本質を重視せず、表面上の伝え方ばかりに重きが置かれるようになっている状況は、いかがなものでしょうか?本質なきところに良い伝え方など存在するはずがないのです。

(47)筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(4)
 語り合えば語り合うほど他人と自分との違いがより繊細にわかるようになること。それが対話だ。「わかりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること。それは、不可欠なものに心を開くことである。そのことで、ひとはより熱い対話をすることができるようになる。対話のなかでみずからの思考をも鍛えていく。よくよく考えたうえで口にされる他人の異なる思いや考えに、これまたよく耳を澄ますことで、じぶんの考えを再点検しはじめるからだ。

(48)対話について、筆者はどのように述べているか。

中文
(1)
 「常識を疑ってみる」ということ、実はそれが学問の始まりでもあります。勉強が「強いて勉める」という受動的な側面を持つものであるならば、学問は「問うで学ぶ」ことであり、極めて能動的な行為です。自ら主体的な行為として問うことを通して、常識とされてきたものの見方を疑い、それを少しずらすなどして、別の見方を見出そうとしていきます。学問の「正解」はひとつとは限りません。学ぶこととは、単純に知識を増やすということではなく、ましてやテストで覚えたことを吐き出すことでもなく、それを自分のものとして再編成していくことであり、さらに言えば自分の物差しが変わり、自分自身が変わっていくことなのです。そして、思いがけない大発見や、独創的なアイデアが生まれるかもしれません。
 「疑う」という言葉は、通常は否定的な意味で使われます。「人を疑う」と言えば、普通はその人を信用しないというのと同義なわけです。私も、人を疑って生きるよりも、できるだけ人を信じて生きていたいと思っています。しかし、世の中で当たり前とされている事柄を「疑う」ことが必要な時もあります。「常識だから」という一言で目を閉ざし、それに安易に取り込まれてしまうことなく、そこを少しずらしたところに面白いことを見出していくために。それは、何事も信用しないというような厭世的な生き方に繋がるのでなく、むしろ創造的で豊かな世界を紡ぎだしていくための、積極的な営みなのです。

(49)筆者によると、学問とはどのような行為か。

(50)学問で「疑う」ことについて、筆者の考えに合うのはどれか。

中文
(2)
 春に美しい花をさかせるカタクリは、アリに種まきをさせるという驚くべき戦略を持っている。カタクリの種は熟すのは花が咲いてから、およそ2ヶ月後だ。はじけて地面に落ちた種は、すぐにアリがやってきて巣に運んでいってしまう。薄茶色の種の先に白い部分がある。これが脂肪分に富んだエライオゾームと呼ばれるものだ。アリはこの部分に惹かれる(注)ことが分かっている。エライオゾームはアリにとってそれほど魅力的な物質であるらしい。
 運ばれた種はアリの巣に貯蔵されることになるが、アリは二日もすると、せっかく運び込んだ種を巣から運び出してしまう。種は巣の中深いところに持ち込まれても発芽できないから、これはカタクリにとって好都合だ。どうしてアリはせっかく集めた種を棄ててしまうのだろうか。実は熟して地上に落ちたばかりのカタクリの種についているエライオゾームは、アリの幼虫が共通して持つにおいに近い物質を持っているのだという。アリは種を食べ物として集めるわけではなく、自分の幼虫と思って巣に持ち帰るらしいというわけだ。ところが種がはじけてから24時間もすると、アリの死んだ幼虫のにおいに変わるのだそうだ。それで今度はアリは種を巣の外に捨てに行くのだというから恐れ入ってしまう。
(注)かれる:心が引きつけられる

(51)筆者によると、アリはなぜカタクリの種を巣に運ぶのか。

(52)筆者によると、アリはなぜ集めた種を捨てるのか。

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(3)
 子は親の鏡と言われる。こどもを見れば親が分かるということだが、こどもは親のしぐさ、もの言いを実によく見ている。三つにもなれば如何にも(注1)生意気で反論などをするものだが、 「そんな言い方をするもんじゃない」と言ったら負けだ。「あら、あなたの言い方とそっくりよ」と横からチクリと揶揄される(注2)のがオチだから。全くこどもは物真似の名人なのである。アイドル歌手からくまのプーさんの喋り方まで、見境なく(注3)貪欲にコピーしてしまう。コピーすることによってこどもたちはすべてを獲得してゆく。こどもたちは個性的であろうなどと少しも考えない。みんなと同じじょうにできることが嬉しくてたまらないのだ。
 だが、こどもの再現のありさまを少し注意深く観察していると、この性能の良い複写機の、本当の性能の良さが見えてくる。大人たちの考えるコピーとはいささか違うのである。こどもたちの身体的能力、言語的能力は未熟なのでオリジナルなものの完璧なコピーはできない。従ってこどもはオリジナルなものを自由に改変する。切り捨て、誇張する。それはオリジナルなものからの絶妙な逸脱なのである。この模倣行為は、むしろ、一人のこどもの生きる生活全体のなかで、今全く新しく意味付けられた別のオリジナルなものが生成していると言ってもいいものなのだ。
 こどもが模倣をしながらも、とりわけ個性的であるのは、このような模倣モデルからの自由な逸脱があるからだ。私たちがこどもを見て楽しむのも、その逸脱のほほえましさなのではないか。
(注1)如何にも:見るからに
(注2)揶揄される:からかわれる
(注3)見境なく:区別なく、何でも

(53)「そんな言い方をするもんじゃない」と言ったら負けだとあるが、なぜか。

(54)こどもの模倣について、筆者はどのように考えているか。

中文
(4)
 人々の肉体には、実は大きな幅がある。生まれ持った個性があり、成長の段階で著しく改変するこうした人間が使用するものを作る際の方向性には、二つの選択肢がある。一つは、異なる体格や身体能力を持つ多数の人々が同じものや環境を平等に使えるようにする方法。もう一つは、それぞれの体格や能力に合わせて、いくつかのサイズや機能を用意する方法である。前者は経済的に有利な試みだが、その効果に限界があるケースが多い。後者は多様なユーザーに対応できるが、開発に時間がかかり、しかも作られたもののコストが上昇してしまうという問題性を孕んでいる(注1)
 ユニバーサルデザイン(UD)では、使い手の様々な問題負担を抑えつつ、個人に不平等感を抱かせないデザインやものづくりを求められている。デザインに平等という意識を上手に反映させていくために、多様な使い手とできるだけ接触し対話を行い、使い手に対する知識と体験を広げることが効果的だ。私たちは平等という感覚をどのようなときに感じ、考えるのかという点を、見つめ直したい。
 私たちが平等かどうかを意識するのは、確かな不平等の予感や印象を持つときであることは間違いない。平等がきちんと保証されている場合、その状況は私たちにとって自然なことであり、問題意識が芽生える(注2)ことはない。しかしデザインやものづくりに当たっては、問題が発生してから平等について考えるのではなく、ものやサービスに常に必要な普通の意識であるととらえたい。
(注1) 孕む:含む
(注2) 芽生える:生まれる

(55)人間が使用するものを作る際の問題点について、筆者が述べていることはどれか。

(56)ユニバーサルデザインにおけるデザインやものづくりについて、筆者が最も言いたいことはなにか。

長文
以下は、筆者がほかの研究員とともに開発したロボットについて書かれた文章である。
 通常、ロボットに対するプログミングは、センサから取得した情報に応じてロボットが何らかの反応をするようなものを作っていく。たとえば「障害物を察知したら避ける」といった具合のものである。しかし、僕はロボピーがもっと適当に、意味のない動きも含めてさまざまな行動を取るようにしたのだ。
 300以上の動作プログラムをし、動作パターンが次々にどういう順番で発現するかというルールを700以上プログラムした。その結果複雑に、多様に動くロボットが実現された。ここまでやると、自分たちでもプログラムがどう作用するかわからなくなる。何に反応して、どんな行動をするか予測不能になった。
 そんなプログラミングをしておいたロボピーを研究室に置いていたら、何が起こったか。僕らがミーティングをしているとき、突然ロボピーは僕らの音声を認識し、「そうではないよ」と言って手をぶらぶらさせながらどこかへ向かって歩きだしたのだ。それを見て僕らは呆気にとられながらも、ロボピーに意思を感じてしまった。僕らの話を聞いていて、彼は思うところがあり、だからどこかへ行ってしまったのだろう、と。
 もちろんそれは、ロボピーの中のあるプログラムが、何かをきっかけに作動しただけのことだ。だがなにか首尾一貫したひとつの意思決定機構から生み出された行動であるかのように見えたのだ。
 僕はそのとき確信した。「心とは、観察する側の問題である」と。
 非常に単純な機械の動きに「心を感じますか」と問えば、感じると言う人は少ない。多少複雑でも、原理を知っていれば「それは心ではない」と言う。しかし、人間は複雑である。いや、虫程度でもいい。動きが相当以上に複雑なものに対しては、相手のことを一から、すべては理解しきれない。自分の頭の中で完全に再現しきれない、解釈しきれない、理解しきれないほど複雑なもの、仕組みがよくわからないくらい入りくんだものが目の前にあると、「こいつは、私の知らないところで勝手に独立して考え、動いているのだろう」という想像が働く。その浮かんできた想像に名前をつけずにはいられなくなる。それを「心」と呼んでいるのだ。
 心とは、複雑に動くモノに現実的にあるというより、その動きを見ている側が想像しているものなのだ。そしてその心は、見ている側の自分にもないと都合が悪い。とくに人間同士であればお互いに「心がある」と感じてしまっている。だからひとはみな「自分には心がある」と思う。しかし心は、実は自分の中にいくら問い合わせ、内省してみてもしょうがない。相手を観察し、想像することでしかわからないものなのだ。

(57) ロボピーが、ほかのロボットと異なる点は何か。

(58) どこかへ向かって歩きだしたとあるが、 その時筆者にはどのように思えたか。

(59) 「心」について、筆者はどのように考えているか。

統合理解
A
 私は普段からメモ魔(注)ですが、人の講演に行くと、必死にメモを取りながら話を聞きます。せっかくその場にいるのだから、最大限吸収して帰ろうと考えます。あるいは友達とくだらない話をしている時でも、「あれ?」と思ったことや、「いい話だ」と思ったことは、何でもその場でメモを取るようにしています。そこで感じた何かや、新しく知り得たものは、別の機会に自分の役に立つかもしれないからです。
 新しい発想や考え方のヒントを得たいといつも問題意識を持っていれば、何気ない人の発言のなかにも発見があるはずです。メモを取らなければ忘れてしまいますので、必然的にメモを取ることになります。手を動かして、記録を取る結果、記憶にも残りやすくなります。こうして意識化・可視化することが大切なのです。
(注)メモ魔: 何でもメモを取る人


B
 話を聞いている時に、視線も上げずにただひたすらメモを取っている人がいる。熱心さは伝わるが、質問もされないと興味や関心を持って聞いてもらえているのか不安になる。このような人は、メモを取ることが目的になってしまっているのではないか。多くの情報を正確に書きとることに集中してしまい、肝心な内容が頭に入っていないのだ。
 しかしどんなに正確にメモを取ったとしても、内容が理解できていなければ、あとでメモを活かすこともできない。受け身ではなく、自分に必要な情報は何か、自分だったらどうするかというように自分と関連付けて、主体的に考えながら聞くことが必要だ。メモは、あとで話を整理する際の手がかりになれば十分である。

(60)メモを取ることについて、 A と B は同のように述べているか。

(61)話の聞き方について、 A と B の認識で共通していることは何か。

主張理解
 企業にとっても、人々にとっても、さきのみえない不安な時代である、そしてそんな不安な時代を生きる子供たちに、「生きる力」をつけさせたいという「親心」は、わからないではない。また企業の経営者が、少しでも優秀な人材を取り込みたいと考えるのは、必然ではあるだろう。地域の衰退や産業の空洞化を食い止められる人間が現れてくれれば、わたしたちの不安な気持ちも、いくぶんなりとも和らぐというものである。
 しかし、まがりなりにも教育学を専門とする者として、ここは言わせてほしい。現代日本社会の問題を、なんでもかんでも教育で解決しようというのはいただけない。
 確かに教育は、人間を育てることを通じて、人々の人生や社会の未来に対して、一定の貢献を為すことができる。しかしわたしに言わせれば、そのような教育の役立ちの度合いは、決して大きいものではない。教育には不確定性がつきものである。これはもう、教員養成のテキストでも論じられる「教育学の基本のキ」だ。教えたからといって、その分だけ子どもが育つというわけではないし、教えたつもりがないのに、子供の方が勝手に学んでいるということもある。もちろん教師も教育学者も、その確率論的な育ちをどうにかして望ましい方向に向ける努力はするが、なんと言っても育つのは子どもなのだから、「最小限のコストで最大限のメリットを達成しなさい」「必要な人材をきっちりきっかり、耳をそろえて(注1)社会に納品しなさい」などという注文を、そうそう請け負うことはできない。
 それにそもそも教育は、経済のためだけのものでも、共同体の維持のためだけのものでも、家族のためだけのものでもない。市場も、国家も、地域共同体も、そして家族も、もっと役に立つ教育をしろ、意味のある教育をしろと言うけれど、それぞれ注文はバラバラなのである。もちろん教育は、それぞれの要求に(確率論的に)少しずつ貢献はする。しかしそれをもって推し進めて、どれかの目的のためだけに合理化・効率化しようとすれば、教育はずいぶんと歪な(注2)ものになる。まして、みんながみんな教育からそれぞれの利益を引き出そうと躍起になっても(注3)、そんな過剰な期待に引き裂かれた教育がうまく機能するとは思えない。
(中略)
 停滞の続くこの社会で、誰もが不安に押しつぶされ、ちょうどその分だけ教育に過剰な期待や希望を託そうとしている。その結果、教育、なかでも学校教育が、改革の波に呑まれ、余裕をなくしそうになっている。教育に多くをもとめすぎると警報を鳴らすことは、結果的に、この社会と社会と教育を持続させるためにいま一番必要なことなのではないだろうか
(注1) 耳をそろえて:不足なく
(注2) 歪な:ゆがんだ
(注3) 躍起になっても:必死になって

(62) 決して大きいものではないと考える理由として、筆者が述べているのはどれか。

(63) 教育について、筆者の考えに合うのはどれか。

(64) 筆者が最も言いたいことは何か。

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(66) シャヒンさんは、来週の「ダンスA」を予約したが、空きがあれば来週の「体操」も追加予約したいと考えている。どうすればいいか。