短文
(1)
以下は、ある会社がホームページに掲載したお知らせである。

株式会社フジハルク>お客様へ大切なお知らせ

2019年10月1日
株式会社フジハルク

家庭用エアコン「A42-C4」の再修理のお知らせ


 日頃は弊社製品をご愛用いただき、厚く御礼申し上げます。
 この度、家庭用エアコン「A42-C4」について、弊社が2019年4月から8月の間に行ったホース修理の際に使用した金具に不具合があることが判明しました。そのため、その期間に修理をした製品に対して再修理を実施させていただくことになりました。
 つきましては、再修理の対象となるお客様には、弊社製品の修理を行っております関連会社「FHエンジニア」より直接電話にてご連絡させていただきます。
 なお、本件に関するお問い合わせは、弊社お客様センターまでお願いいたします。
 お客様には大変ご迷惑とお手数をおかけしますことを深くおわびいたします。何卒ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。

株式会社フジハルクお客様センター:0120-333-4585
(受付時間10:00-18:00 土日祝休み)

(46) 「A42-C4」の再修理について、このお知らせで伝えたいことは何か。

短文
(2)  目的地を目指して走るだけでは、人生というのはもったいないのではないか。私は散歩することが好きなのだが、散歩というのは、ゴールをめざして邁進することの対極(注)にある。むしろ目的に縛られていたのでは見えてこないものへと心を開いていなければいけない。ちょっとした季節の移り変わり、鳥の声、ここちよい風。店先からパンを焼くにおいなどが漂ってくると、それだけで幸せな気持ちになる。人生にも、こんな味わいがあるだろう。
(注)対極:反対の位置

(47)筆者が言いたいことは何か。

短文
(3)
 子どもたちは、教師から「自分で考えなさい」「人の真似をしてはいけません」ということを明示的にも、暗黙的にも示されると、「人の真似ではない」という「真似」をすることを学ぶようになる。例えば、自分自身の気持ちとは裏腹に、あえて「人とは異なる発言、あるいは行動をする」ことを学んでいく。この学びが模倣ではないとどうして言えようか。一見個性的、一見創造的に見える仮面をつけた模倣は、明らかな「形」の模倣とは異なる故に、その実体が見えにくい。

(48)仮面をつけた模倣とは、どのようなものか。

短文

(49)筆者によると、現代とはどういう時代か。

中文
(1)
 私たちは頭の中で「考える」とき、決して論文のように筋道の立った記述のように考えるわけではな い。たとえば私の評論を書くときの経験では、論旨のエッセンスとなるような直感とか、ハイライト部分(注1)の「決め」になるようなフレーズ(注2)を思いついたときに「これは書ける」なんてわくわ くして思い立つのである。つまり、その瞬間の頭に浮かんだものは、ばらばらな断片と大まかな展望に 他ならない。そのピンポイント(注3)の断片と他の断片との間を、スムーズな説得力のある流れにな るように継ぎ足していく作業が「書く」という仕事である。
 しかし、スムーズにつなぐことに集中しすぎると、もとの目的地から逸れた方向へ論旨が勝手に伸びて いってしまうことが、ままある(注4)。(中略)ひとは書こうとしていたことをきちんと書けるわけ ではなくて、むしろ積み木のように書き足しているうちに、最初は書こうともしていなかったことを知 らず知らずに書いてしまうことが少なくないのである。そのくせ書き上げてしまうと「そうか、自分は こういうことを考えていたんだ」などと思えてくるから不思議だ。
 私たちの意識は、言葉とイメージの網の目をふわふわ漂っているようなものである。それが言葉や文章 に定着したとき、「考え」というものになる。言葉を抜きにして「考え」は存在しない。順序として 「考え」がもともとあったから言葉が出てくるのだと思いがちだが、逆に言葉が出てきて初めて「考 え」ははっきりするものなのである。だから言葉の運動が勝手に作り上げてしまった論旨が、いつのま にか自分の「考え」になってしまうという現象が起こるわけだ。
(注1) ハイライト部分:ここでは、重要な部分
(注2) フレーズ: ここでは、言葉や表現
(注3) ピンポイントの:ここでは、中心となる
(注4)まま:時々

(50)筆者によると、書くとはどういうことか。

(51) 不思議だとあるが、なぜか。

(52) 筆者の考えに合うのはどれか。

中文
(2)
 イギリスの科学誌『ネイチャー』の最近の号に、カエルの種多様性と寄生虫の感染率についての論文が 載っています。カエルの全数は同じで、特定の1種類しかいない場合と、数種類のカエルが共存する場 合で、ある種のカエルが寄生虫に感染して発病する割合は、前者のケースのほうが高いという内容で す。つまり多様性が高いと特定の種が病気になる割合が下がるというのです。
(中略)
 他の種が存在することによって自分が病気になる確率が下がるとするのなら、それぞれの種は互いの種 を競争で滅ぼしてしまわないほうが自分も得をします。もしかすると、自分たちの使う資源を他の種に 譲ってでも、それを存続させることが有利になるかもしれません。アリのような種内での協力と同様、 いくつもの種がコストを払って共存し合うことで、それぞれの種が得をしている可能性があります。種のレベルを超えた協力と言えるかもしれません。
 この話がさらに面白いのは、それが寄生虫という、カエルを減ぼしかねない要因とリンクして起こって いる点です。寄生虫の側から見た場合、感受性の(感染する) カエル1種だけのときは、どの個体へも 感染でき、そこで成長できますから、短期的な寄生虫の増殖率は高くなるでしょう。しかし、全部のカ エルに感染して殺してしまうと寄生できる相手がいなくなるため、寄生虫も減びなくてはならなくなり ます。したがって、いろいろなカエルがいることは、寄生虫にとっても、自身の長期的存続を可能に するメカニズムとして働いているのです。

(53)カエルが寄生虫に感染して発病する割合が低いのは、どのような場合か。

(54) 種のレベルを超えた協力とはどのようなものか。

(55) 寄生虫について、筆者はどのように述べているか。

中文
(3)
 今、モノづくりの過程を「見える化」と称して可視化(注1)、数値化し、技やノウハウを共有化した り、さらには自動化して人を減らそうという動きが盛んになっています。けれど、この過程には大きな 危険が潜んでいることを認識しなくてはなりません。
 モノづくりには、手づくり、手作業の要素が非常に重要です。経験、約に基づく技は体で覚えるしかあ りません。見える化しようとすると、すべての作業をデジタル的に数値化することになります。しか し、勘や経験による手作業は数値化できません。また、どんな思いを込め、どんな気持ちでつくってい るかという心の部分は数値にしょうがありません。
(中略)
 見える化の過程には「省略」と「変形」が起きる危険性があります。怖いのは、一度、仕組みができ上 がると、それが元の実態であるかのような錯覚を起こし、一人歩きしてしまうことです。見える化されたものは、元々の姿からアナログの部分が省略され、変形しているのです。これに気付かなければなり ません。
 もう一つの危険は創造が起きなくなることです。ある職人の技があったとします。これを見える化して も、そこからは何も新しいものや価値が生まれているわけではありません。
 匠(注2)の技とは、自分で経験を積み、手で触り、頭で考えている中で、「こうしたほうがいい」 「こんなやり方があるな」と気付き培ってきたものです。つまり、手作業のプロセスの中にこそ創造が あるのです。
 今のやり方を見える化、自動化し、手作業のプロセスを抜いてしまえば、新しい技術は生まれません。
(注1) 可視化する:目に見えるようにする
(注2) 匠:優れた職人

(56)これとは何か。

(57) 筆者によると、新しい技術を生み出すのに必要なことは何か。

長文
 脳科学はヒトそのものの仕組みを明らかにしようとする学問です。そのため、その成り立ちから人々の 耳目(注1)を引くように運命づけられていると言えます。脳科学は、誰もが青春の一時期に悩む「自 分って何だろう」という疑問に科学の力で挑むという、考えてみたら少し青臭い(注2)学問だったりするのです。
 だからというわけではありませんが、人々の口に上りやすく、そのため伝搬のスピードも他の学問と比 べて早いように思います。特に、自己 (注3)の知覚の裏をかかれるようなさまざまな現象、たとえば 錯視現象や無意識と意識の話などは、自己恒常性、つまり自分がいつも自分であり続けることに関わる だけに、他のどんな科学より人々の気持ちを鷲掴(注4)みにします。そのせいで、脳機能を理解する 前に現象だけが先走って人々の間に広がっていくことも多い学問です。もちろん、それは何より面白いからです。
 そんな脳科学も、昨今の説明責任という考え方や社会還元という意味合いで、一般の人々へなんとか知 見のフィードバック(注5)をしなければならない圧力にさらされています。少し前には、脳科学の研 究成果が新聞に掲載されることはあまりありませんでしたが、今ではプレスリリース(注6)も当たり 前に行われますし、そこではできるだけ面白く人々の興味をひきつけるストーリーを作りがちになりま す。本当はそういう色気は基礎科学に馴染まないのですが、メディアからの要請があると、僕たちはな んとかそれに応えようとして、浅薄な脚色をして本当の面白さをゆがめてしまいがちになります。
 そういう「メディア対応」と呼ばれる技術も科学者に必要とされている現代は、ある意味で科学者にと って不幸な時代なのかもしれません。
中略
 昨今の過剰なメディアの脳科学の取り上げ方は、科学者の説明責任を遥かに逸脱したレベルであるよう に思えるのです。そういうメディアの要求に、誠実に対応しようとすればするほど、科学者 は自分をす り減らすことになるでしょうし、だんだんと科学の現場から乖離せざるを得なくなるでしょう。それ は、優秀な科学者を潰すことになります。
 科学者の価値は、何よりも科学の現場に居続けることにあります。科学的知見に裏打ちされない(注7)空論を弄ぶのではなく、常に研究の現場に自分をつなぎ止め、足を杭で打ち付けてでも科学の現実 から離れないようにすること。そういう決意をもってメディアに対応するのであれば、フワフワと遠く に行ってしまうことはないでしょう。
(注1) 耳目を引く注意を引く
(注2) 青臭い:ここでは、純粋すぎる
(注3) 自己の知覚の裏をかかれる:ここでは、自分が思いもしなかった
(注4) S掴みにする:ここでは、強く掴む
(注6) プレスリリース: メディア向けの公式発表
(注7)に裏打ちされる: てに裏づけられる

(58)脳科学について、筆者はどのようにとらえているか。

(59) そういう色気とは、どのようなことか。

(60) 現代のメディアと脳科学の現場との関係はどのようになっているか。

(61) 筆者によると、昨今のメディアとの関わりにおいて、科学者はどうあるべきか。

統合理解
A
 褒めれば人は育っといいます。確かに人間は叱られるより、認められたり褒められたほうが嬉しいに決 まっていますし、「よし、次もがんばろう」とやる気も出るものです。リーダーだって、普段からガミガミ言うより、部下を褒めるほうが自分自身の気分も良いでしょう。
 しかし褒めてばかりいると、今度は思わぬ弊害が出てくると私は考えています。確かに部下の士気は上 がるのですが、逆に褒められることが目的になりかねない。「お前は偉いな」と課長に褒められたいから、仕事を一生懸命にやるようになってしまうのです。
(中略)
 「良くやった」「偉いな」などという言葉は、たまに言うから効果的なのであって、日常的に口にして いたら効果は半減してしまうでしょう。要は褒めるところと叱るところ、リーダーはいつも人を見てパ ランスを考えなくてはなりません。

B
 部下のやる気を引き出すようにうまく褒めるのは難しい。的外れな褒め方をすれば「自分をよく見てい ない」と不信感を抱かせてしまうし、皆の前で特定の人ばかりを褒めれば、チーム内の関係が悪化してしまうこともある。さらに彼め続けることで、部下が、仕事への責任感や使命感からではなく、上司に 褒められることを目的にがんばるという状態になってしまう恐れがある。
 このような事態を避けるために、上司には適切に褒める技術が求められる。部下が良い仕事をしたら、 タイミングを逃さずその場で褒めることが効果的だ。また、成果だけを定めるのではなく、仕事の過程の中で何が良かったかを取り上げて褒めることが重要だ。そうすれば、部下も評価された点を明確に自 覚でき、次の仕事につなげやすくなる。

(62) 部下を褒めすぎることの問題点として、AとBが共通して述べていることは何か。

(63) 部下への接し方について、AとBはどのように述べているか。

主張理解
 交換と交易(注1)の歴史は非常に古く、何万年も前までさかのほれるようだが、貨幣経済は進化史的 に言えばごく最近のことである。どんなものにも変えることができる抽象的な価値とは、とんでもない発明だと思う。(中略)
 それは、貨幣というものが、確かに人間の生活を変え、世界を見る目を変え、欲望のあり方を変え、人 生観を変え、結局のところ人間性を変えてきているように思うからだ。貨幣経済の真っただ中で暮らし ている私たちにとって、貨幣は当たり前の存在だが、ヒトという生物にとって、こんなものの存在は決 して当たり前ではなかった。そして、大量の砂糖や脂肪の存在に私たちの脳も体もうまく対応できてい ないのと同じく、この貨幣という存在にも、実は私たちの脳はうまく対応できていないのではないだろか
 ヒトが狩猟採集生活をしていた頃、ヒトは自分たちの手で集められる食料を食べ、自分たちの手で作れ る道具や衣服を使って暮らしていた。できることは限られていたし、望めることには限度があった。ま さに等身大(注2)の生活である。それ以上の世界の可能性を知らなければ、欲望にも限りがあった。 「欲しい物」というのは具体的な物であり、それを手に入れる方法は限られていた。そして、ヒトはそ のことを知っていた。
 しかし、何にでも交換できる抽象的な価値が手に入るようになると、それ自体を得たいという新たな欲 望が生まれる。「金の亡者」(注3)は、何か特定の物が欲しいから貨幣を得るのではない。ともかく貨 幣をためることが何にもまして大事な目的なのだ。そこには限度がない。
 また、何にでも交換できる抽象的な価値は、人間関係を買うことも、幸せな気分を買うこともできる。 貨幣がない時には、人間関係を築いていなければできなかったことが、個別の人間関係抜きに手に入 る。逆に、貨幣なしではほとんど何もできない。
 そして、今では、貨幣を手に入れることは一つの職業につくことである。一つの職場で一つの仕事を し、その対価(注4)に貨幣をもらう。そうすると、ヒトは、自分が独立して生きていると思う。本当 は、今でも狩猟採集生活時代と同じように、みんなで共同作業をすることで生きているのだ。農家がい なければお米も野菜もない。物流や商店がなければ、買うことができない。医者がいなければ病気を治 せない。学校の先生がいなければ教育ができない。今でも、みんなでともに生き、生かされて暮らして いるのだが、それぞれに貨幣が介在しているので、共同という感覚がなくなる。便利なものには必ず負 の面がある。ちょっと立ち止まって考えてみた方がよい。
(注1) 交易: ここでは、取り引き
(注2) 等身大の: その人の状況や能力に合った
(注3) 金の亡者:異常に金銭に執着する人
(注4)対価:ここでは、報酬

(64)とんでもない発明だと思うのは、なぜか。

(65) 狩猟採集生活をしていた頃のヒトの欲望について、筆者はどのように述べているか。

(66) 筆者によると、ヒトは貨幣を手に入れてどうなったか。

(67)筆者が最も言いたいことは何か。