短文
(1)
 田川優子様
 この度はトラベルライトをご利用いただきありがとうこざいます。
 弊社ホームページよりお申し込みいただいた「小型飛行機で行く暁島」(12月9日発)は、航空券の発売がご搭乗日1か月前からとなるため、現時点では仮予の便が確保できましたら、田川様のご自宅宛あてに確認書をお送りします。
 万が一、こ希望に添えなかった場合は、別の便をご提案させていただくこともございます。何とぞご了承ください。
 それでは、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
2017年9月10日
株式会社トラベルライト(担当 中村)
電話:024-881-6456(平日10~19時・土日祝9~18時)
メールアドレス: toiawase@travellight.co.jp

(46)このメールで最も伝えたいことは何か。

短文
(2)
 あらゆる仕事はなんらかの形で、その人を世界の中に位置づける。畑仕事のような個人作業でもそうだ。自然のサイ クルの中に、自分の存在を確かめることができる。人はどんなに大金持ちになっても、なんらかの形で働こうとする生 き物だろう。お金持ちはお金持ちなりの仕事を、自分でつくり出すはずだ。それは人間が、外の世界との関わり合いを通じてしか自分が存在する実感を得ることができず、またそれを常に渇望(注)していることを示している。
(注)渇望する:強く望む

(47)筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(3)
 「すべての歴史は現代史である。」この有名な言葉が示す内容は、われわれが史料(注1)に対した場合、けっきょく 史料をとおして過去を見るのは、ほかならぬ現在のわれわれであり現在の眼(め)である、ということである。
 われわれは、公平無私に(注2)、また古い時代の人の心になって対処しようとしても、われわれが生きている現在の時代の人間である、ということから脱出することはできないからである。 要するに歴史学は、こうした性格をもった学問である。
(注1)史料:歴史研究のために必要な文献や遺物など
(注2)公平無私に:私的な感情を持たずに公平に

(48)筆者によると、歴史学とはどのようなものか。

短文
(4)
 人間は古い昔から、「人間とは何か」を問うてきた。けれどそれは、早く言えば「人間は動物とどこがちがうか?」 という問いかけであった。いわく(注)「人間には動物にはない言語がある」、いわく「人間には思想がある」、「人間には文化がある」等々。しかしこの問いかけは、根本的にまちがっていた。問題は「人間は動物とどうちがうか?」 ではなくて、「人間は他の動物とどうちがうか?」ということだったのである。これに答えるには、人間はどういう動物であるかを問う以外にない。
(注)いわく:ここでは、よく言われるように

(49)筆者の考えに合うのはどれか。

中文
(1)
 日本には昔から「物見遊山」(注1)という言葉がありますが、非日常への憧(あこが)れは観光の一つの本質です。 しかしその一方で、物見遊山だけに頼った観光地はいずれ必ず飽きられてしまうというのも事実です。例えば富士山(ふじさん)を見た外国人が、もう一度富士山だけを見るために訪日してくれるでしょうか?よほど個人的な思い入れでもない限り、そういうケースは稀でしょう。 海外からわざわざやって来た旅行者に日本という場所へのリピーター(注2)となってもらうためには、彼らがまた戻って来たくなる別の工夫が必要です。
 どの様なビジネスであったとしても、顧客(=ファン)の存在は決定的な意味を持ちます。そのブランドの価値を認めて、 長期にわたって買い支えてくれる人の存在無しには安定的な収益は望めません。このことは観光地においても事情は同じです。
(中略)
 ここで再び、本質的な問いかけが浮かんできます。顧客とリピーターを生みだし、観光・リゾート地として何度も選ばれ続けるためには、一体何が必要なのでしょうか? 本当の意味で旅行者を惹きつけ、その土地のファンとなるのは、名所旧跡のような観光資源だけではありません。 重要なのは自分たちとは異なる豊かな「日常性(ライフス タイル)」です。その土地の人たちが生き生きと暮らしていれば、訪れた人はきっとその理由を見つけたくなる。
 風土に根差した生活様式、独自の食文化、季節ごとの行事、その地の環境が育んだ産業――。 二回、三回と足を運べば、その度にまた 違った表情が見えてくる。その深さを知れば、決して飽きることはありません。
(注1)物見遊山:見物して遊びまわること
(注2) リピーター:ここでは、繰り返し訪れる人

(50)富士山(ふじさん)の例を挙げて、筆者が述べようとしていることは何か。

(51)このことは観光地においても事情は同じとあるか、どういうことか。

(52) 観光地として何度も足を運んでもらうには、何が重要か。

中文
(2)
 芸術作品が私たちにもたらすものは、感動ばかりではない。驚きとか困惑、ときに不快感やイライラ感だったりする。それまでだれも思いつかなかったような形状や色彩や音は、私たちをさまざまに揺さぶる。
 私たちは慣れ親しんだ世界に浸っているとき心地よさに包まれているが、そこから新しいものは生まれない。そういう意味で穏やかで心地よい文化は、保守的で現状肯定的であり、創造性やエネルギーにとぼしい。だからこそ、あえて不安とか狂気、驚きといった刺激をもたらしてくれる①天邪鬼(注1)としての芸術が社会には必要なのである。
 そういう意味で芸術は安定した穏やかなものを否定するところで生まれる。そうした芸術が誕生すると、社会は大きな包摂性(注2)をもっているから、トゲトゲしたものもくるんで呑(の)み込んでしまう。すると、また異質な刺激因子としての芸術が必要になってくる。
 ②その繰り返しによって、社会と文化のエネルギーが維持されるのではないか。
(中略)
 そうした芸術の天邪鬼性は、活力よりも穏やかさが優勢になりがちな成熟社会においてはより重要である。しかも、いまは昔とちがって世の中の変化のサイクルがどんどん短くなっており、これは芸術を生み出す側に大きな変化が求められていることを意味している。
 なぜなら時代の変化に合わそうとすると、必然的に次々と作品を世に出さなければならず、個々の作品の質を高めることがむずかしくなる。質を高めて完成域に近づいたときには、もう時代は次のサイクルに入っていて、次の作品に取りかからなくてはならない。
(注1)天邪鬼:ここでは、逆らったり否定したりするようなもの
(注2)包摂性:中に包み込む性質

(53)筆者によると、①天邪鬼としての芸術が社会に必要なのはなぜか

(54)②その繰り返しとあるが、何を繰り返すのか。

(55)筆者によると、いまの芸術家はどのような状況に置かれているか。

中文
(3)
 いま私たちの多くは、社会など動かしようがないと考えているのではないでしようか。そして、それを所与(注1)の 条件として、どのように行動すればいいかの判断基準を決めているのです。
 言い換えれば私たちは、「この社会は動かしようがないのだから、それを現実として受け入れるしかない」と思い込み、その範囲内で実行可能な行為しか考慮しなくなってしまうのです。
 ここに①大きな誤りがあります。
 たしかにこの社会は動かし難い。それは事実です。しかし、そのことと、この社会がいかにあるべきかは、まったく別のことです。にもかかわらず、目の前の現実に依拠(注2)して、私たちの行為の正しさやよさが決められてしまう。
これでは、現実に不正義が行われていても、それを問うことはできません。なぜなら、そのような現実を前提にして、正しい行為とは何かのルール設定がなされてい るからです。
 目の前の現実が正義にかなっていない場合、そこでの行為の正しさやよさを問うことはできないと私は考えていますが、ともすると(注3)私たちは、その現実の範囲内での「適切な」行為を「正しい」行為であると考えてしまいがちです。
 たしかに、②その現実が動かしがたく、そのなかで生きていかねばならないとすれば、そこにおいて最 も適切な行為とは何かを探究することには意味がありますし、その探究によって最も適切とされる行為を選択すべきでしょう。しかしながら、その現実のほうに問題があるとすれば、そこで最も適切とされた行為は「適切」であるにしても、「正しい」行為ではないはずです。
(注1)所与の:与えられた
(注2)に依拠する: ~に基づく
(注3) ともすると : ここでは、つい

(56) ①大きな誤りとは何か。

(57) ②その現実とあるが、どのようなものか。

(58) 行為の適切さと正しさについて、筆者はどのように考えているか。

長文
 互いに視線を向けるという場面では、サルと人間には大きな違いがある。
 サルにとって相手をじっと見つめるのは軽い威嚇(いかく)になり、強いサルの特権である。弱いサルは、見つめられたら決して見返してはいけない。挑戦したとみなされて攻撃を受ける羽目になるからだ。強いサルの視線を避けて横や下を向くか、歯をむき出して笑ったような表情をすればいい。
 強いサルは自分の優位性を確認できれば、それ以上威嚇(いかく)することはない。ただ、自分が強いサルの関心を引きそうな食物に手をかけていたら、すぐさまその場を退いたほうがいいだろう。
 競合する場面では、弱いサルが強いサルに譲るように誰もが期待しているからだ。それがサル社会のルールである。
 人間ではサルとは違ったことが起こる。時折「眼(注1)をつけただろう」とすごまれる(注2)ことがあるが、見つめるという行為はふつう威嚇(いかく)にはつながらない。むしろ、相手に積極的な関心を向けたり、許容や忠告、愛の表現であったりする。
 視線の向け方にも作法があり、目をかっと見開いたり、細めたり、丸くしたり、四角にしたり、横目や流し目、上目づかいや見下すなど、多種多様である。その作法は文化によっても、性別や年齢、身分や服装によっても違ってくる。それは人間にとって、顔と顔とを合わせ、視線を交わすことが重要なコミュニケーションであるからだ。
 実際、言葉が発達した私たちの社会でも、重要なことは直接会って決めることが多いし、面接は人物を確かめる手段として重用されている。
(中略)
 ところが、現代の情報機器はこの視線の作法をあまり使わなくてもすむ社会をつくってしまった。 人々は毎日インターネットやメールをのぞくために多くの時間を使っている。家族や親しい仲間とじっくり顔を合わせて、対話や協同作業を楽しむ時間を失いつつある。
 その結果、多様な視線の作法を忘れ、他人と視線を合わせることが億劫(おっくう)となっているのではないだろうか。だが、言葉は視線のコミュニケーションを代替できない。
 言葉は意味を、視線は感情を伝える。むしろ意味があいまいであるからこそ、視線は暖かくも冷たくもなりうるし、そこで受けた印象を後で変えることもできるのである。
 言葉は視覚で得た映像や画像を意味として切り取る。そして文字はその言葉を化石化する装置である。それが持ち運び可能な効率的な手段だからこそ、人間は世界を言葉や文字で塗り替えた。だがそのおかげで、私たちは豊かな心を育んできた視線による対面の世界を忘れようとしている。 それは皮肉 にもサルのような視線を合わせない、優劣社会に移行することにつながるのではないか、と私は不安に思っている。
(注1)眼をつける:相手の顔をにらむ
(注2) すごむ:脅すような態度をとる

(59)筆者によると、サル社会のルールとは何か。

(60) サルとは違ったこととは何か。

(61) 筆者は、視線の作法をどのように

(62) 筆者の考えに合うものはどれか。

統合理解
A
 会社の仕事は学校と違い、知識だけでは役に立たず、実際の判断や行動が問題である。だから何ごとも、実際に経鋼しない限り、新しい能力は身につかない。今持っている能力というのはすべて、過去において未経験の仕事に取り組んだ結果、身についたものだ。
 したがって、部下や後輩に対しては常に、今までの仕事をだいたいこなせる(注)ようになったなと思ったら、すかさず彼にとっては未経験の仕事を与え、それをやりとげるようバックアップをする必要がある。
(中略)
 そして何とか問題を克服したら、必ずほめる。ほめることによって本人も“おれもやれるな”と自信がつき、次はこちらから未経験の仕事を与えなくても、自分で新しい問題を買って出るようになる。そして全力投球でそれと対決し、克服してさらに自信の持てる範囲を広げ、さらに未経験の課題に取り組むという成長循環に入っていく。

B
 企業で人材を育てるには、上司が部下の行動のスタイルを理解して指導を行うことが重要だ。これまでは、まずはとにかく経験させ、その過程で試行錯誤しながら進歩していくのがよいと考えられてきたが、最近では事前に情報をインプットした上で経験をしたいというタイプが多い。 このようなタイプには、未経験の仕事をいきなり与えるのではなく、十分に情報を与え全体像をつかませた上で、新しい仕事に取り組ませることが効果的だ。
 最近の部下は現状維持でいいと考える人が多いという批判が聞かれるが、彼らの行動のスタイルに合わせて経験を積ませていくことによって視野が広がり、自ら新しいことに取り組もうという姿勢を持つようになるだろう。
(注)こなす:処理する

(63)部下に未経験の仕事をさせることについて、AとBはどのように述べているか。

(64) AとBが共通して部下に期待していることは何か。

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