短文
(1)
 失敗はすべて子どもがその後の人生を大過(注)なく生きるための血となり肉となる。そう思えば失敗する前に手を出すことがいかに愚かな教育かわかろうというものです。ただし親は常に子どもをそばでしっかり見守っていなければなりません。手は出さないけれどいつでも危険から救ってやれるよう待機するのです。そうしてもし子どもが転んでケガをしたら「ほら痛いでしょう。ぶつからないように注意するのよ」と教えてやる。そういう姿勢が親に求められるのです。

(大宅映子『親の常識』による)


(注)大過:大きな過ち

(46)筆者が親に対して言いたいことは何か。

短文
(2)
以下はある会社がホームページに掲載したお知らせである。

<ズミズタマ健康食品株式会社>ニュース 2014.10.14
健康食品「ビタミン生活V」に関するお知らせ
お客様各位
平素は弊社商品にご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、2014年9月8日より通販および弊社直営店舗での販売を開始いたしました「ビタミン生活」 は、情報番組での紹介もあって、当初の販売計画を大幅に上回り、生産が追いつかない状況となって おります。そのため、すでに通販での受注を停止しておりますが、店舗販売も在庫がなくなり次第、 一時中止せざるを得なくなりました。
今後は生産体制を整え、11月17日に店舗販売のみ再開を予定しております。
お客様にご迷惑をおかけしますことを、深くお詫び申し上げます。
ミツヌマ健康食品株式会社 お客様担当係:0120-333-44554
「受付時間 10:00-18:00 土日祝休み」

(47)「ビタミン生活」についてこの文書は何を知らせているか。

短文
(3)
以下は諦めについて書かれた文章である。
 人が自分の能力以上のことに憧れそれがどうしても出来ないというのになお執着を持っているとしたら登れない壁の下で徒らにじたばたしているようなもので気の毒でもありますが滑稽でもあります。この場合は諦めが必要です。ただそれはその次の自分の能力に合った憧れなり道なりを求めるためにのみ必要であって諦めの中に憩ってしまうことは少し見当が外れていることになるかもしれません。

(串田孫一『考える葦』による)

(48)筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(4)
 私が35歳になったころ「このごろは少年時代に経験したようなものすごい雷雨が無くなった」と口にしたことがあります。ところが60歳ぐらいになったとき35歳ぐらいの人から同じ言葉を聞いたのです。つまり私が強い雷雨は無くなったと感じたときその人はまだ少年時代で強い雷雨を経験していたことになります。この場合は無くなったのは少年時代特有の自然から受ける鮮烈な印象驚き恐れでしょう。

(倉嶋厚『日和見の事典――倉嶋 厚の人文気象学ノート』による)

(49)筆者の考えに合うのはどれか。

中文
(1)
 不安は正体がつかみきれないときほど膨らんでいく。長く引きずる。人間だれでも自分に都合の悪いこと恐ろしいことは考えたくない。そういう心理が働くから無意識のうちに問題をあいまいにして解決を保留にする。
 そうして結局①いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまう
 逆に自分の何がどのように不安なのか不安に思う必要があるのかどうかを把握すればそれだけで不安は減る。不安の正体が明確になってこれは何かしなくてはまずいと認識されればそれは「危機感」になる。
危機感は不安と違う。危機感をもてば行動を起こそうという意欲が湧く。さらに情報を集めて行動計画をたてようとする。やるべきことが明確になる。だからスタートが切れるのだ。
 問題は鍵となる不安は何なのかということだ。様々な不安の中からそれを特定して意識する。その不安に思いきり光を当てて自分で正体を見極められれば次にどうすればいいかの対策も講じられる。
 (中略) 不安にはしばらく保留にしておいても大丈夫な不安もある。それがわかった瞬間不安はまた少し減る。
 こうして自分が何をやらなければいけないかが見えてくる。やる気が出てくる。動く気になる。不安の解決策を考えながら夢が膨らんでくることもある。

(佐々木直彦『「仕事も人生もうまくいく人」の考え方』による)

(50)①いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまうとあるがなぜか。

(51)筆者によると危機感をもつとどうなるか。

(52)不安について筆者はどのように考えているか。

中文
(2)
 自分の泣いているときの表情や笑ったときの表情をまともに見たことのある人はまずない。写真やビデオになれば自然な笑いがおさめられることもあるかもしれないがそこに映っているのは過去のそれであっていま内側から生きている感情と重なり合うものではない。その点鏡ならばそれを同時的に捉えられそうにもみえる。しかしじっさいには自分が笑っているときその笑っている自分の顔を見たとたんもはや笑いつづけられなくてさっと笑いがさめてしまうものである。泣いているときも同じである。
(中略)
 自分の表情を視覚的に捉えることにはそもそも無理がある。他方他者の表情を内的に捉えるこ とも私たちが他者の身体を内側から生きることができない以上不可能である。ならば他者の表情の理解はほんらい不可能なことだということになるはずだが私たちは日頃から表情の理解が不可能だとか困難だとかほとんど思いもしない。現に私たちは他者のわずかな表情の変化にも敏感であるしその表情の理解を土台にすることで人間関係の基本部分を成り立たせている。
 表情はほぼ人類に共通であって微妙な表情は別として人種がちがってもそれを読み間違うことはまずない。含み笑いとか苦笑いあるいは愛想笑いとかいったものだと同じく笑いでも文化差があって読み間違うことがあるかもしれないが典型的な表情に関してはまず間違わない。そうだとすれば類としての人間のなかに表情を通して人どうしわかり合うメカニズムが個の単位を越えて存在するものと考えねばならない。

(浜田寿美男『「私」とは何か』による)

(53)いま内側から生きている感情と重なり合う表情について筆者はどのように考えているか。

(54)他者の表情を理解することについて筆者はどのように考えているか。

(55)筆者の考えに合うものはどれか。

中文
(3)
 多くの大人は子供よりも先に生きているから自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって決して「人生」ではない。生活の仕方いかに生活するかを知っているのを人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが人生を教えることだと間違えているのである。しかし「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だがこの両者は大違いである。「何のために」生活するのと問われたらどう答えるだろう。
 こういう基本的なところで大間違いをしているから小中学校で仕事体験をさせようといった愚(注1)にもつかない教育になる。(中略)生活の必要のない年齢には生活に必要のないことを学ぶ必要があるのだ。それはこの年齢このわずかな期間にのみ許されたきわめて貴重な時間なのだ。生活に必要のないことは人生に必要なことだ。すなわち人生とは何かを考えるための時間があるのはこの年代の特権なのである。
 「人生とは何か」とはそこにおいて生活が可能となるところの生存そのものこれを問う問いである。「生きている」すなわち「存在する」とはどういうことなのか。
 この問いの不思議に気がつけばどの教科もそれを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。国語においては言葉算数においては数と図形理科においては物質と生命社会においては人倫(注2)どれもこの存在と宇宙の不思議を知ろうとするものだと知るはずだ。人間精神の普遍的な営みとして自分と無縁なものはひとつもない。どれも自分の人生の役に立つ学びだと知るはずなのだ。

(池田晶子『人間自身――考えることに終わりなく』による)


(注1)愚にもつかない:ここではばかばかしい
(注2)人倫:人として守るべき道

(56)多くの大人について筆者はどのように考えているか。

(57)筆者によると子供にとって必要なのはどのような時間か。

(58)「人生とは何か」と問うことによって筆者は何がわかると考えているか。

長文
以下はある芸術家が書いた文章である。
 人間は動物とちがって知的な活動その情熱をもっている。おさなくたって魂の衝動は強いのだ。だから子供は描きたがる。形色にして確かめる。だが問題は自分のなかにあるものを外に突き出す投げ出すという行為自体であって決して出来上りの効果ではない。
 だから子供は描きおわってしまったものはふり向きもしない。捨てられたって何とも思わないのだ(中略)それを大事そうに拾いあげて「これは面白い。」「坊やは才能がある。これをうまく伸ばせば将来えらい画家になるかもしれない。」などと観賞したり評価するのはいつでも大人で子供自身はもしほめられてもそんなものかなと聞いているだけである。
 だから「子供の絵」というような言い方の根本に何か間違いがあると私は思う。描いたものには違いないが「作品」ではない。その以前のもっと根源的な何ものかなのである。
 「絵」などというから大人の「絵画作品」と混同して考えてしまう。そこにズレがおこる。大人のは見せる芸であり商品である。はじめから観賞することしてもらうことを目的とし結果を予測しながら作り上げたものなのだ。
 いわゆる「絵描きさん」となると描いている瞬間瞬間に結果がわかっている。こうやればこうなる。習練(注1)と経験によって色やタッチ(注2)の効果が計算できるし生命の衝動情熱無目的な行動よりも結果の方に神経が働いてしまう。出来ばえに逆にひきずり回されているのだ。
 しかも大向こう(注3)の気配まですでに見すかして……こんな趣向は喜ばれるだろうこれはちょっとやりすぎかななどと意識・無意識にそんな手応えにあわせながら仕事をすすめている。評判をとり買手がついてくれなければ食ってゆけないし社会が許さない。生活はきびしいのだ。無償の行為というわけにはいかない。 明らかに「作品」つまり「商品」を作っているのである。 大人の作品だって本質的には生命力こそ肝要なのだ。自分の存在を純粋に外に投げ出す突き出すアクションの質強さによって猛烈な魅力になる。
 私自身は少なくともそのつもりである。よくあなたの絵はわけがわからないと言われるが「絵」でございますというようなものは作りたくない。それ以前そして以後のものをひたすらつきつける。――絵ではなく芸術。そして出来るかぎり他の評価を無視したいと思っている。

(岡本太郎『美しく怒れ』による)


(注1)習練:練習
(注2)タッチ:ここでは筆の使い方
(注3)大向こう:ここでは観賞する人々

(59)捨てられたって何とも思わないのはなぜか。

(60)子供の描いたものが「作品」ではないのはなぜか。

(61)「絵描きさん」について筆者はどのように述べているか。

(62)筆者は芸術をどのようにとらえているか。

統合理解
A
 世界遺産への関心が高まるのは喜ばしい。各地で登録をめざす動きも活発化している。新聞をはじめとしたメディアがそれらを報じる機会も増えた。ただいつも気になるのはそこに「地元では観光振興に結びつくのを期待している」といったたぐいの文言が必ずと言ってよいほど目につくことだ。私としては観光・経済効果の拡大を否定はしないし文化財保護との両立はできると考えている。しかし近年の状況を眺めると遺産の保護という基本理念があまりにも置き去りにされてしまってはいないだろうか。

(中村俊介『世界遺産が消えてゆく』による)



B
 日本では映像や書籍などさまざまなメディアで世界遺産を商品化しパッケージ・ツアーが数多く組まれ観光産業と深く結び付く。だがそれは本当に建築や自然を愛し歴史への理解を深める人間を増やしているのだろうか。 (中略) 世界遺産であろうとなかろうと建築の価値は個別に判断すればいい。人間も肩書きだけですべてを理解できないだろう。世界遺産に認定されたからといって株のように建築の価値が上昇するわけではない。むろん観光資源として巨額の富をもたらすだろうがモノとしては同じままである。私が気になるのは世界遺産だけを特別視するあまり逆にそれ以外のものはがんばって保存しなくてもいいという風潮を助長するのではないかということだ。

(五十嵐太郎 『建築はいかに社会と回路をつなぐのか』による)

(63)近年の世界遺産についてAとBが共通して認識している点は何か。

(64)AとBは世界遺産をめぐってどのような姿勢を持つべきだと述べているか。

漢字読み

1。 申込書にパスポートのコピーを添付した。

2。 学生に慕われる教師になりたい。

3。 商品に破損があった場合は交換いたします。

4。 この件は、すでに部長の承諾を得ている。

5。 庭に淡いとピンクの花が咲いている。

6。 個々の事情を考えず、画一的に判断するのはよくない。

文脈規定

1。 現在、工場にあるすべての機械を24時間(  )させて、生産量を増やしている。

2。 世界中でインターネットの利用者数が (  )勢いで伸びている。

3。 海外に赴任したときは、言葉や習慣の違いから様々な困難に(  )した。

4。 失敗は誰にでもあるのだから、いつまでも(  )していないで、元気を出してよ。

5。 二つの発表は優劣をつけがたいが、(  ) 選ぶなら後者のほうだ。

6。 以下の条件に一つでも(  )する人は、必ず事務室に申し出てください。

7。 机の上に置いたはずのレポートが見つからないが、ほかの書類や資料に(  )しまったのだろうか。