短文
(1)
 何かを学ぶということは、もちろん問題に答える知識や技術を身につけるという意味もあるけれど、それは実は学ぶことの本質ではない。ぼくらは本や学校で、これまでひとが見出してきたさまざまな秩序、筋道を学ぶ。だけどそうやってさまざまな「型」を学ぶことによって今まで見えていなかった。あるいはぼんやりとしか見えていなかった。「型やぶり」なものが見えてくるようになる。つまりは、学べば、学ぶほど、見えてくる問題は増えるというわけだ。

(野矢茂樹『はじめて考えるときのように、『わかる』ための哲学的道案内』による)

(46) 筆者は、学ぶことの本質とは、どのようなことだと考えているか

短文
(2)
以下は、ある旅館に届いたメールである。
横西旅館
ご担当者様
11月30日に、貴旅館のホームページから宿泊の予約をした者です。

予約ページによりますと、宿泊の可否についてはメールでご連絡いただけるとのことですが、いまだメールをいただいておりません。
出発の日時が、迫っておりますので、早急にご確認いただけますでしょうか。
予約番号は、131130172で、予約した内容は、以下のとおりです。

宿泊希望日:2013年12月21--23日 (2泊)
人数:3名(大人2名、子供1名)
部屋 : 1室(禁煙ルーム)

なお、予約時には夕食の時間は、19時にお願いしていましたが、18時に変更してください。よろしくお願いいたします。

上田真山

(47)このメールがもっとも伝えたいことは何か。

短文
(3)
 医者、ナース(注)と患者との間の意味のズレやスレ違いは、患者の身体的症状に対する専門的な医学的認識、患者自身の意味づけとの間に生まれている。医療関係者の課題の一つは、患者自身の身勝手な解釈とそれに基づいた治療行動を再考させて、医学的に求められる治療活動だけに目を向けさせることであろう。つまり、患者の内面にある認識構 造の再構成というむずかしい問題にぶつかるのである。

(梶田正巳『勉強力をつける一認識心理学からの発想」による)


(注) ナース : 看護師

(48) 筆者によると、医療関係者に求められていることは、何か。

短文
(4)
 日記とは限りなく私的な記録であり、読者が存在しないどころか、他人には読まれたくない秘密の表現であるともいえる。
 ただ一人だけ奇妙な読者が存在する。いつでも自由に日記を読むことのできる日記の筆者である。その読者は筆者とは異なる場に立って様々な配慮を動かす。万が一、日記が盗み読まれたり(注)、死後に他人の目に曝されるような事態が発生した場合、こんなことが、書かれているのはまずいのではあるまいか、等々と。しかし、 これは限りなく私的な記録である筈の日記にとっては矛盾である

(49) 矛盾であるとあるが、何が矛盾か。

中文
(1)
 十年絵を描いてきて、最近になってようやく筆の止めどころが、わかってきたかな、と思います。描きすぎずに筆を置くコツが少しずつわかってきた。
 最初のうちは、筆が多くなるものなんです。描きたいという気持ちが強いだけに、まだ、足りない。まだ、足りないという気になって、どんどん、描き出してしまう。だけど、それを無理して、セーブすることはないと思います。やっぱり、①とことん行ききっちゃったほうがいいんですよ。何事も。
 たとえば、空腹のときに腹いっぱい食べて満腹感というものを味わっておかないと、加減というものが、わかりません。人間、満腹のことを知っているから、これはまだ五分(注1)腹八分といったら、この程度だという加減がわかる。一回とことんやってみることで、抑えることや、行き過ぎないことの良さが初めてわかるものですからね。
 (中略)自分が描きたいモチーフそのものと対峠(注2)して、自分の感じたところで、筆を進めている分には、いいんですが、客観的にそれを見て、ここが足りない。あそこが、足りないと思って描き出してしまうと、やめどころが、わからなくなってしまいます。それは、自分が、どう見て、どう感じたかという気持ちを素直に絵にするということとは、違ってくる。②絵を説明してしまうことになる。そうすると、絵が、うるさくなります。
 客観的な目を持つことも、確かに大事なことではあるんですが、見たまま感じたままのストレートな気持ちを解説してはいけないと思うんです。
(注1) 五分:全体の50パーセント
(注2)対峠する:向き合う

(50)筆者は、絵を描き始めた時、どのように描いていたか。

(51)①とことん行ききっちゃったほうがいいんですよとあるが、なぜか。

(52)②絵を説明してしまうことについて、筆者は、どのように考えているか。

中文
(2)
 大方の予想に反して、科学が飛躍的な成果をもたらす現場では、誰もが実生活の中で、体験する新鮮な驚きや、たわいのない(注1)、思いつきの類がその起点となっている。むしろ、科学の画期的な発明発見など、限りなく日常的で具体的なものごとが元になっているのである。(中略)
 しかし、日ごろの思いつきや驚きと違って、思いついて終わり、驚いただけ、ということにならないところが、要するに科学の特徴である。思いつきや驚きは、新しい確かな「ものの見方」へのきっかけでしかなく、科学とは、それらをとことん洗練する創意工夫の営みにほかならない。実は、創意工夫こそが、歴史上も、有数の科学者たちにみられる、かなり一貫した姿勢なのである。
 何かに驚いて、それまでは、当然だと思っていたことに、少し違った角度から眼差しをむけてみる。それだけでなく、違った角度から見えてきたことを首尾一貫(注2)させ、確かなものにすると、求めても無駄な望みだと決めつけていたことが、あっさりと実現できることに気づく。新鮮な驚き、些細な思いつき、そして、ちょっとした理解の修正をきっかけに、常識とは、少し違った「ものの見方」をしたとき、どこか一面化していた常識そのものがより豊かなものにならないか考えてみる。これが、科学を本当に発展させた人々に共通した姿勢である。

(瀬戸一夫『科学的思考とは、何だろうかーものつくりの視点から』による)


(注1) たわいのなし、:ここでは、小さな
(注2) 首尾一貫させる:始めから終わりまで、一貫しているようにする。

(53) その起点とあるが、何の起点か。

(54)筆者は科学における思いつきや驚きを、どのようなものと考えているか。

(55)科学を発展させた人々に共通している姿勢は、何か。

中文
(3)
 多くの人は、個性の持ち主にあこがれて、できれば見習いたいものだと思いながら、実は、一方で「人並み」である ことをひそかに求めてもいる。「ひと」からはずれていたり遅れていたりすることは、彼らを極度に不安にする。「同じ」思いを抱いていたことを発見することは、大きな安心を与えるはずであるから。「同じ」思いの通ずる仲間が見つかると、すぐにでも群れようとする。①そういう人間の傾向は、別に、日本人にだけ備わったものというわけでもなく、ほとんど、本能的なものとして、多かれ少なかれ誰もが、抱えている要素であるといってよい。
 にもかわらず凡庸さ(注1)は、表向き、なぜこれほど忌み嫌われる(注2)のか。それは、おそらく、人間というものの大多数が凡庸な生を生きるほかなく、自分の未来もまたその限界のなかにあることをうすうす知っているのだが、 そのことをそう決め付けられることは、自分の生を希望のない確定的なイメージに塗り込めてしまうことであり、それは②個としての価値を否定されてしまうことにつながると感じられるからである。
 生きる意欲が現にあるのに、お前の未来はこのとおり当たり前のものでしかないと規定されることは、未来に向かうものとしてある「生の意欲」の本質的条件を根こそぎにしてしまう。自らが、有限な存在であることを大筋ではわきまえつつ、しかもその範囲内に未知の部分を必ずいくらかは残しておく。そこに自らが、個であることの確証をかろうじて求めようとするのだ。

(小浜逸郎『この国はなぜさびしいのか「物の指し」を失った日本人』による)


(注1)凡庸さ:ここでは、人並み、平凡であること。
(注2)忌み嫌う:ひどく嫌う。

(56)①そういう人間の傾向とあるがどのような傾向か。

(57)何か②個としての価値を否定されてしまうことにつながるのか。

(58)筆者の考えに合っているのはどれか。

長文
 音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものはどうしても、現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、また、そうであるがゆえに価値を持つものとされてきたと言ったほうが、よいだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。他方で、荒れた世の中をしばし(注1)忘れるためのオアシスのような場所としての意義が叫ばれるようになったりもするのだが、いずれにしても、その音楽を研 究している立場のわれわれはしばしば、「この世知辛い(注2)世の中で、 そんなことをやっていられるというのはうらやましいことです」などと言われ、①何とも複雑な心境になるのである。
 だが、コペルニクス的転回を遂げた(注3)と言っても、過言ではない近年の文化研究の進展の中で、政治や社会の話と切り離して文化が論じられるなどということが幻想である、というより、そのような幻想自体、すでに一定の政治的社会的イデオロギーの刻印を帯びた(注4)ものにほかならなかったということが明らかにされてきた。いまや、音楽研究者の中にも、政治や社会から切り離された純粋な「音楽そのもの」がどこかに宙(注5)に浮いたような形で存在しているなどと素朴に信じているような人は、誰もいないだろう。
 音楽研究に関わる人々の意識も代わり、研究の内実も大きく変わってきているにも関わらず、むしろ、音楽研究の世 界の外側にいる人のほうが、音楽を「純粋」な形で囲い込みたがっているように思われるのは②皮肉なことだ。社会科学の最先端で議論をしている人が、音楽の話になったとたんに、30年前の音楽研究に戻ったかのような古典的なデータや図式でものを考えていることが明らかになるような場面に、これまで、何度か出会ってきた。歴史学者などが中心になって、編んだ領域横断的な論集などで、音楽の部分だけはひどく浮世離れした(注6)古めかしい論文が掲載されており、音楽研究の最近の成果と大きく切り離してしまっているようなこともしばしばある。ここ十数年で、音楽研究 者の目に映る音楽の世界もずいぶんと変わっているのに、われわれの発信が不足しているために、その面白さを十分に 伝え切れていない。そんな気がするのである。

(渡辺裕『音楽は社会を映す一考える耳「再論」』による)


(注1)しばし:しばらく
(注2)世知辛い:暮らしにくい
(注3) コペルニクス的転回を遂げる: 考え方がこれまでと根本的に変わる
(注4)刻印を帯びる:ここでは、影響をうける。
(注5)宙:空中
(注6)浮き世離れした:現実と懸け離れた。

(59)①何とも複雑な心境になるとあるが、なぜか。

(60)筆者によると、近年の音楽研究者は、音楽をどのようにとらえているか。

(61)②皮肉なことだとあるが、何が皮肉なのか。

(62)現在の音楽研究者のあり方について、筆者はどのように述べているか。

統合理解
A
 近年食品問題への関心が高い。その多くは食品の安全性を不安視する声だ。すでに政府は中立の立場で公正に科学的評価を行う機関を設置し、企業も独自の検査や表示を行うなどの対策を始めた結果、以前より安全性は向上していると言える。
 しかし残念ながら、まだ消費者の安心感には結びついていない。今後必要なのは、安全な者は安全だと消費者が正しく理解できることではないだろうか。科学的に安全だと判断された食品が、消費者にも安全だと認知されれば消費者の安心につ ながる。そのためには、提供する側のわかりやすい説明とともに、消費者側もそれを理解するための科学的知識を備える必要があるだろう。

B
 発生した食品事故に対して適切な対策がとられ、科学的に安全が証明された後も、いつまでもその食品の消費回復が見られないということはよくある。消費者が納得しないのである。
 (中略)安全に関しては、絶対安全ということはありえないにしても、コストさえ掛ければ技術的に安全度を上げることが可能である。しかも安全度は多くの場合、科学的に数値として明示できる。しかし安心の場合には、示された客観的な事実に納得するかどうかは、消費者一人一人の主観によっており、これを説得するのは簡単なことではない。安全を安心に繋げる難しさには、フードシステム(注)に対する消費者の信頼の程度が大きく関係する。消費者と生産者あるいは、政府の間に信頼関係が構築されていれば安全証明がほぼ同時に安心へと繋がる。

(時子山ひろみ「安全で良質な食生活を手に入れる一フードシステム入門」による)


(注)フードシステム;食品が生産者から消費者に届くまでの流れ

(63)AとBの認識で共通しているのは何か。

(64)AとBは、どうしたら消費者が安心を得られると述べているか。

漢字読み

1。 今回の大会では、若手の躍進が目立った。

2。 計画をきちんと遂行することが大切だ。

3。 作者の思いがこの一言に凝縮されている。

4。 どの親もわが子が健やかに育つことを願っている。

5。 このセンターは、日本のがん研究の中枢を担っている。

6。 介護制度の整備が遅れているという事実は否めないだろう。

文脈規定

1。 雨の降らない日がこれ以上続けば、農業に影響するだけでなく、日常生活にも(  )を来すおそれがある。

2。 その空き地には、(  )量のごみが捨てられて、山のようになっていた。

3。 この歌手は若者の間で(  )な人気を誇っている。

4。 話し合いは平行線を(  )、結局一致点を見いだせなかった。

5。 弊社の採用試験では、筆記試験よりも面接に(  )を置いています。

6。 当選した林氏は取材に対して、今回の選挙は終盤まで(  )を許さない厳しい戦いだったと語った。

7。 田中さんはいつも手際よく(  )仕事を進めている。