短文
(1)
現代、恋愛は、通常は部分でしか他者とかかわり合いをもたない個人にとって、例外的に全人格と全人格とのぶつかりあいを経験する、特別な関係なのであろうか。それとも、「全人格的」というのは幻想で、恋愛もまた互いに自己のある一面を見せあう、部分的関係の一例か。これはもちろん、そのどちらなのか、という問題ではなく、個々の恋愛はこの振幅のどこかにあるということになるだろう。だが、趨勢(注)としては後者の方へと振れてきているのではないだろうか。

(草柳千早「AERA MooK」 1999年7月10日号による)


(注)趨勢:傾向

(46)筆者は、現代の恋愛はどうなってきていると考えているか。

短文
(2)
 これから起こる社会の変化を読みとるのは難しい。しかし、その変化を見極めて将来に対する指針をもたなければ、激しく変化する社会のなかで自分を見失ってしまう。歴史学は、この時代の変化を長い時間のなかにおいて見据え、社会め進む方向を教えてくれる学問である。けっして、過ぎ去った過去を記憶したり、なぞったりする学問ではない。ゆるやかに流れる時代にあっても激動する時代にあっても、歴史学は私たちの行く(注1) 手を照らす一条(注2) の光なのだと思う。

(高山博『歴史学未来へのまなざし――中世シチリゕからグローバル・ヒストリーヘ』による)


(注1) 行く手:行く先
(注2) 一条:一筋

(47)歴史学について、筆者はどのように考えているか。

短文
(3)
昔もいまも、才覚といのは一定のXXから飛び出してゆく能力のことで、みんなにそんな例外的な「能力が備わっていたら、そもそも大地にはりつく農業も、分業で成り立つ産業社会もあり得ない。いつの世も、才覚のある者が新しいビジネスを起こしてゆくのは事実だが、それをビジネスとして成立させるのは社員の労働と訳身であるし、それがなければ起業者の才覚が活きることもない。

(高村薫 『関人生生 平成雑記帳2007』による)

(48)才覚のある人について、この文章ではどのように述べられているか。

短文
(4)
 今の世には明るいものは余りに尐なく、暗いものは余りに多く見えるが、両者は別個のばらばらではない。絶望と見える対象を嫌ったり恐れたりして目をつぶって、そこを去れば、もう希望とは決して会えない。絶望すべき対象にはしっかと(注1)絶望し、それを克服するために努力し続ければ、それが希望に転化(注2)してゆくのだ。そうだ、希望は絶望のど真ん中の、そのどん底に実在しているのだ。

(むのたけじ『希望は絶望のど真ん中に』による)


(注1) しっかと:しっかり
(注2) 転化:変化

(49)この文章で筆者が言いたいことは何か。

中文
(1)
 よく知らない人についてどのようにして印象を受けるのであろうか。ゕッシュの有名な実験を例にして紹介する。誰彼についての印象というものは、与えられる手がかり(情報)の順序によって影響されることを示している。たとえば、「知的な→勤勉な→衝動的な→批判力のある→頑固な→嫉妬深い」の順番である人物の特徴が伝えられると、多少の欠点はあるが、適応的で有能な人物という印象ができる。一方、これとは逆の順番「嫉妬深い→頑固な……→知的な」では、深刻な問題を抱えた人とみなされる。(中略)最初の手がかりが方向づけをし、後に与えられる手がかりはそれに結びつけて解釈されると考えられる。これを初頭効果という。初めに与えられる手がかりが否定的だと後の肯定的な手がかりも胡散臭くみなされてしまう。世に言われるように、「第一印象が肝心」なのである。なお、①この効果はすべての人に見られるわけではなく、むしろ、後の手がかりによけい影響を受ける人もあることも指摘されている。あまり創造的でない人、認知の物差しが尐ない(見方の次元が尐ない)人の場合には、与えられた手がかりを順番に維持しがたく、初めに与えられた手がかりが後に与えられた手がかりによって上書きされてしまい、結果的に初めの手がかりによる印象は薄くなり、②後の手がかりによって印象がつくられやすい(新近効果)。相手が複雑さに強い人かどうかで、伝える情報の順序を操作することによって印象を変えることも可能である。

(海保博之編著『瞬間情報処理の心理学』による)

(50)①この効果とはどのようなことか。

(51)②後の手がかりによって印象がつくられやすいとあるが、なぜか。

(52)初頭効果と新近効果の二つの説明からわかることは何か。

中文
(2)
 書を読むという行為が、人間の成長や知的能力の向上に必須のものであることを、かつての社会は経験法則的に理解していたのではないだろうか。素読(注1)などは強制的、修養(注2)的なものではあるが、読書習慣の形成を何よりも重視する教育メソッド(注3)であったことは確かである。しかし、①私たちの世代はどうであろうか。書物というものが映像や音響メデゖゕなどと単純に比較することを許さない必需品であり、読書は基本的な能力であるという確信をいだいてきたものの、近年の社会経済のあり方によって自信を喪いかけていたことは否めないのではなかろうか。
 活字以外の表現手段が大きな影響力をもつようになったことを②「時代の流れ」と呼ぶのはいいが、文化の変容があまりにも急激なこと、あるいは一つの有力な文化が別のものに置き換えられることには予測しがたい弊害を伴う。活字にもいろいろあるが、書物に特有の楽しみを与えてくれる本、思索の喜びをもたらしてくれる本、人生の支えになるような本が相対的に尐なくなったのは、1980年代の半ばごろからで、書店の棚には情報的な本や、映像文化の書籍化をねらった寿命の短いものばかりが目立つようになった。家庭からはスペースの狭さをいいわけに、本棚が姿を消してしまった。
 ちょうどそのころから映像文化や活字文化の本質を考えるメデゖゕ論が盛んになったが、いまから思えば従来の活字文化が衰弱した場合にどうなるかという洞察力において、いささか欠けるところがなかっただろうか。

(紀田順一郎『読書三到――新時代の「読む・引く・考える」』による)


(注1) 素読:ここでは、意味を考えずに、声を出して読むこと
(注2) 修養:学問を修め人格を高めること
(注3) メソッド:方法

(53)①私たちの世代とあるが、筆者の世代にとっての読書はどのようなものであったか。

(54)②「時代の流れ」は、書物にどのような変化をもたらしたか。

(55) 1980年代半ば以降のメデゖゕ論について、筆者はどのように述べているか。

中文
(3)
 現在、不安定化する社会におけるさまざまなリスクが個人を直撃しています。かつてであれば個人の属する集団や組織が、リスクを受け止めるのを支えてくれました。ところが、いまではそのような支えを期待することは難しくなっています。現代における不平等は個人単位で現れるのです。しかもその場合、不安や不満を抱えた人々は、同じような立場に置かれ、似たような思いをもった人々と連帯することが①けっして容易ではありません。外から見れば、どれほど共通の傾向が見られる問題でも、一人ひとりの個人にはどうしても〈私〉の問題に見えてしまうからです。
(中略)
 平等化社会を生きる個人は、それぞれが自分の〈私〉の意識をもっています。その意味でいえば、誰一人、他者の意のままにその存在を否定されるほど弱くありません。もし、社会が自分の存在を認めないのなら、逆に、自分もそのような社会を認めないというのが、現代における個人の典型的な自意識といえるでしょう。反面、②そのような個人は自分一人で自己完結できるほどには強くありません。自分が[同類]のうちの一人に過ぎないことを痛いほど自覚している平等化社会の個人は、それゆえに他者をつねに意識せざるをえないのです。
 そうだとすれば、一人ひとりに固有な〈私〉にこだわりつつ、それでも自らの不完全性を日々感じている個人にとって、自分の自分らしさを確認するためにも他者が必要なはずです。その場合の他者とは、自分の身の回りにいて、相互に承認を与え合うような他者ばかりでなく、自らに位置と役割を与えてくれる社会もまた、重要な他者にほかなりません。

(宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』による)

(56)①けっして容易ではありませんとあるが、なぜか。

(57)②そのような個人とはどのような個人か。

(58)平等化社会を生きる〈私〉にとって他者とは何か。

長文
 自然は多種多様の生物群が存在することで、それなりの安定を維持している。そのなかの一種ないし数種を撲滅することは、とりもなおさず全体のバランスをくずす結果になる。複雑な形の自然石かつみかさなってできた石垣から、一個ないし数個の石をひきぬいたらどうなるか。影響はたちまち全体におよび、石垣そのものの大規模な崩壊をおこすにちがいない。ちょうどそれとおなじである。しかも自然界の場合、構成それ自体が複雑であるゆえに、影響もいっぺんには表面化しない。ある部分はたちどころ(注1)に、べつの部分は長期間をおいたのちに、被害の進行をあらわにしてくる。人間自身の予想もしなかった個所へ、①意表をついた連鎖反応の結果がでてくるのである。Aなる(注2)害虫を除去する目的で、ある薬剤が使用されたとしよう。その目的はたっせられて、Bなる作物が虫害をまぬかれた。しかしその結果、おなじくAによって食い殺されていたCやDの種属が、抑制因子をとりのけられて爆発的に増加し、あらたな害虫となってBにおそいかかる。こういった例が多数あるのである。
 殺虫・殺菌の効能をもつ化学薬品が、いったん開発されてこのかたというもの、人間は文字どおりなりふり(注3)かまわず、ひたすらそれへの依存度を増し、つまり量質ともに強大化する方向へっっぱしった。なぜそのようにしなければならなかったのか。最近の日本では、②このことをもいわゆる公害の一種にふくめ、製薬資本の営利主義――すなわち企業の利益のため不必要な薬品を売りまくって乱用をすすめたことが、非難のまとになっている。しかしこれだけで片づけられるほど、事態の本質は単純でないのだ。上のような皮相(注4)的見解でわりきるには、現在の状況はあまりに絶望的である。すでに③最初の出発点からして、人間の文明それ自体のなかに、かく(注5)ならざるをえない必然性がやど(注6)されていた。一企業の責任に帰するには、悲劇の根はいささか深すぎる。
 人間が今日のごとく高度文明をきずきえたのは、採集経済から脱して、牧畜さらに農耕という生産手段を発明したからである。それは換言すると、ある特定の土地を、牧場あるいは田畑として使用することである。さらに換言すると、人間の利用目的にかなう家畜・作物によって、それらの土地を独占させることでもある。ほんらいならばそこの土地には、家畜・作物いがいの各種生物が、当然のこととして棲息(注7)していた。人間はそれらの生物群にたいし、害獣・害鳥・害虫あるいは雑草といった汚名を一方的にかぶせ、強引に排除する手段にでた。こうして自然界のバランスがくずれた。いわゆる公害の起原は、工業とともにおきたのではなく、遠く牧畜ないし農耕のはじまりにさかのぼるのである。

(レ チェル・カーソン著・青樹簗一訳『沈黙の春』一筑波常治の「解説」による)


(注1) たちどころに:たちまち
(注2) ~なる:ここでは、~という
(注3) なりふりかまわず:ここでは、先のことも考えず
(注4) 皮相的:表面的
(注5)かく:このように
(注6)やどす:含む
(注7)棲息する:生きる

(59)筆者は、①意表をついた連鎖反応をAB C Dを用いてどのように説明しているか。

(60)②このこととあるが、このこととは何か。

(61)筆者が考える③最初の出発点とはいつのことか。

(62)筆者によると、自然界のバランスがくずれた原因は何か。

統合理解
A
 現代の若苦向けのファッションは、かつての一流デザイナー主導とは異なり、消費者自らの感性で選択するものに変わってきている。
 ある衣料専門店では、客の目線に近い若い店員に好きな服をデザインさせて、これまでにない若者向けのファッションを形にしてきた。店内にはいろいろなバリエーションを楽しみたいという客の要望に応えられるように、あらゆるタイプの商品が置かれている。また、一対一で接客することを基本としているため、売り場には多くの店員がいる。悩んでいる客には一時間以上対応することもある。この丁率さのおかげで、客は喜んで買い物をして、何度も足を運ぶ客となっていく。 このような努力を重ねた結果、売り上げを確実に伸ばし、現在ではトップクラスの専門店となっている。

B
 店はがらがらなのに、長期間増収を続けている大手衣料品店がある。
 どの店舗も広々としていて、店内に客で混雑することはない。道路もショッピングカートが楽々とすれちがえるほど広く、カードを止めて商品を見ていても邪魔にならない。子連れでも他の客に気を遣うこともなく買い物ができる。ある店舗が混雑するようになると、近くに新店舗を作ってしまうというのだから、需きた。
 店には多種多様な商品があり、それらはすべてハンガーで壁一面につり下げられている。客は、一目 で欲しいものが見つけだせるので、無駄な時間を費やすことなく買い物を済ませられる。
 このような経営スタイルが好評で顧客満足度が高く、増収につながっているのだ。

(63)AとBで紹介されている店の共通点は何か。

(64)AとBで紹介されている店の経営方針は、どのような点で異なるか。

漢字読み

1。 関係者から話を開いて、ようやく現状が把握できた。

2。 社長の発言に憤りを感じる。

3。 その話の趣旨がよくわからなかった。

4。 兄は大学で日夜研究に励んでいる。

5。 川田さんは最後まで自分の出張を貫いた

6。 この30年で、この国の貧富の差は縮まってきている。

文脈規定

1。 問題の再発防止のために、何度も会議を聞いて対策を(  )。

2。 私はスポーツなら何でも好きだが、(  ) サッカーが大好きだ。

3。 職場の環境に満足していたので、その当時は転職など全く(  )になかった。

4。 妹は今日が初めてのデートらしく、朝から(  )して落ち着かない様子だ。

5。 社長は、会社の将来を(  )人材の育成に力を入れている

6。 パーティーでは林さんが料理を作って、みんなにその(  )を披露してくれた。

7。 自分の考えに自信がなくて発言するのを(  )いるうちに、議論が先に進んでしまった。