短文
(1)
 食器のバラエティこそ、日本のやきもの(注)の特色の一つだと思います。そして、日本人のやきものに対する思いとか愛着は、食器のみならず、種類の豊富さにあらわれているといってもいいでしょう。
 私たちは食事のたびに、もちろん料理も食べていますが、知らずに目で食器も食べているのです。だから興味・関心がないというのは、不注意なだけなのです。すでに下地はできているのですから、あと一歩踏みこめば、やきものに興味・関心がグッと深まるはずなのだと思います。

(江口滉『やきものの世界』による)


(注)やきもの:陶芸品

(46)筆者の考えに合うのはどれか。

短文
(2)
 おとなは子どもに「嘘つきは泥棒のはじまり」として正直であることを強要しますが、弱者は苦しい嘘をついてでも自らの尊厳を守ろうとします。
 論理的に正しいことを理性と呼ぶとすれば、理性的にあることができるのは強者だからです。強者はそれゆえに理性的に弱者の過ちを責めようとしますが、弱者の立場からいえば、それは何の意味も持たないことが多いのです。弱者のする謝罪とは、劣勢を一時的に解消する手続きや儀式にすぎないのです。

(吉田脩二『ヒトとサルのあいだ--精神はいつ生まれたのか』による

(47)筆者は、弱者をどのようにとらえているか。

短文
(3)
以下は、ある会社がホームページに掲載したお知らせである。

東本タイヤ株式会社


2011年6月15日
タイヤ価格改定のお知らせ
当社は原材料価格の高騰を受け、トラック・バス等の特殊車両用タイヤの値上げを、本年3月(夏用タイヤ)、および4月
(冬用タイヤ)実施致しました。
しかし、原材料のさらなる価格高騰が続き、現在の出荷価格の維持が不可能であると判断し、本年9月1日より、一般車両用タイヤを含むすべてのタイヤの出荷価格を改定することと致しました。何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます。

以上

(48)タイヤの出荷価格について、この文章は何を知らせているか。

短文
(4)
 思春期を迎えた最近の子どもがストレスに弱いのは、それまでの発達過程で適度にストレスにさらされる経験を十分にへてこなかったことが深く関係している。しかもそれは、彼らが社会化を十分に遂げてこなかったことと等しい。というのも、10代前半までの子どもは、それまでの生活圏を出てより広い社会的文脈のなかでいかにして自己を実現させるかという課題に取り組むなかで、もっとも強くストレスを味わうからにほかならない。

(正高信男『父親力』による)

(49)筆者は、思春期を迎える前の子どもにとってどんな経験が必要だと考えているか。

中文
(1)
 以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形(注1)だね」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色合いや形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を愛でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。
 科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から、「正五角形」という形だけを取り出すこと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びらは少ないだろうが、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。
 自然界で正五角形のような対称性を示すためには、必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁(注2)の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的な法則が見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。

(酒井邦嘉『科学者という仕事』による)


(注1) 正五角形:五つの辺の長さが等しい五角形
(注2)花弁:花びら

(50)筆者は、自分が笑われた原因はどこにあると考えているか。

(51)ここでの理想化とは何か。

(52)筆者の考えによると、花の場合、抽象化と理想化によって何が期待されるか。

中文
(2)
 住居を買おうとするときは、その資産的な価値に重点を置いて考える人が多い。普通の人にとっては、一生に一度の買い物とでもいうべきもので、多額の金を費やさなくてはならないので、当然のことだ。買った後で、何らかの事情で売らなくてはならない羽目になったときに、価値が減少していたのでは、大損害を被る。
 だが、住居にとってより重要なのは、その有用性(注1)である。住みやすさが必要なのはもちろんだが、自分のライフスタイルに合った構造になっているとか、生活のしやすい環境にあって利便性(注2)に富んでいるとかの点も、重要な要素である。それらは必ずしも世間一般の価値基準とは一致しない。したがって、自分たちの考え方や行動様式に従い、それに照らし合わせて判断する必要がある。
 特に、終の住処(注3)として考えるときには、自分たちの生き方をはっきりと見極め、その視点に立ったうえで、選択し決めていかなくてはならない。年を取ってくれば、当然のことながら、行動する能力は衰えてきて、動き回る範囲は狭まってくる。
 自分たちの余生がどのようなものになるかについて、計画を立てたうえに想像力を働かせて、確実性の高い予測を組み立ててみる。その未来図に従って、住むべき場所の見当をつけ、住居の大きさや構造などを決めていく。もちろん、将来の経済状勢の大きな変化に備えて、予算を大きく下回る出費に抑えておくことも必要であることは、いうまでもない。

(山崎武也『シニアこそ都会に住もう——田舎暮らしは不安がいっぱい』による)


(注1)有用性:役に立つこと
(注2)利便性:便利さ
(注3)終の住処:人生を終えるまで住む家

(53)世間一般の価値基準として筆者が本文であげているのは何か。

(54)筆者の考えでは、年を取ってから住む家として住居を選ぶときに最も大切なことは何か。

(55)住居選びについて、筆者が最も言いたいことは何か。

中文
3)
 人間は、所詮、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型(注1)ができてしまうから、場合によっては、大きく歪められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、①そういう宿命を背負っているのである。
 だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭な認識の鋳型で「世界」をくり貫いて(注2)いるだけということが生じたりする。鋳型が同じであるかぎり、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識をもつことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。
 一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、②「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠(注3)と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっぱり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漫然とメディアの情報を眺めているだけでは激流に呑み込まれてしまう。
 いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めることが痛切に求められているのではないか。
 もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。

(寺島実郎『世界を知る力』による)


(注1)鋳型:ここでは、画一化した型
(注2)くり貫いて:ここでは、切り取って
(注3)茫漠:広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子

(56)①そういう宿命とはどういう意味か。

(57)②「世界を知る」ことがますます困難になったのはなぜか。

(58)筆者は、「世界を知る力」を高めるためにできることは何だと考えているか。

長文
 我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷(注1)になる。言葉の風呂敷はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな、我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。
 人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質、農夫に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に開かれていなければ、ひからびて(注2)不毛になる。
 与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質に植えられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、物識り(注3)たちの大風呂敷を指して言うのではない。

(前田英樹『独学の精神』による)


(注1)大風呂敷:実際より大きく見せたり言ったりすること
(注2)ひからびて:乾ききって
(注3)物識り:物事をよく知っている人

(59)①そんな錯覚に捕らえられるとはどういう意味か。

(60)②これとは何を指すか。

(61)この文章では、学問をするということをどのような例を使って説明しているか。

(62)筆者は「教養」をどのようなものだと考えているか。

統合理解
A
 乳幼児期の子どもは、身近な人とのかかわりあい、そして遊びなどの実体験を重ねることによって、人間関係を築き、心と身体を成長させます。ところが乳児期からのメディア (注1)漬けの生活では、外遊びの機会を礁い、人とのかかわり体験の不足を招きます。 実際、運動不足、央眠不足そしてコミュニケーション能力の低下などを生じさせ、その結果、心身の発達の遅れや歪みが生じた事例が臨床の場(注2)から報告されています。このようなメディアの弊害は、ごく一部の影響を受けすい個々の子どもの問題としてではなく、メディアが子ども全体に及ぼす影響の基大さの警鐘と私たちはとらえています。特に象徴機能(注3)が未熟な2歳以下の子どもや、発達に問題のあめる子どものテレビ画面への早期接触や長時間化は、親子が顔をあわせ -緒に遊ぶ時間を奪い、言葉や心の発達を妨げます。

(社団法人日本小児科医会 2010年6月18日取得による)



B
 専門家からは「テレビをやめて積極的に外遊びをしましょう」 「自然の中で遊びま しょう」という意見が聞かれますが、お母さんたちは進んでテレビを見せているのではなく、地域に出ても同世代の子どもがいない、昔と比べて自然がなくなった、という問題ももちるのだと思います。 (中略) 多くの親は、テレビの長時間視聴がよくないことを自覚しており、見せる内容にも気を遣っています。
 生活の中からテレビを排除するだけではなく、一日に六時間も七時間も子どもにテレビを見せる親の背景に何があるのかを考えなければ、問題の根本的な解決にはならないのです。
 したがって、私たちの生活スタイルと、子どもにとって望ましいテレビ視聴のあり方のバランスをとりながら、これらの検証を進める必要があるのではないでしょうか。

(小西行郎「早期教育と脳」による)


(注1) メディア : ここでは、テレビやビデオ
(注2) 臨床の場 : 実際の診察、治療の現場
(注3) 象徴機能: ここでは、身の回りのものを、例えば言葉などで表す働き

(63)子どもにテレビを長時間見せることについて、A とB の観点はどのようなものか。

(64)子どもとテレビの関係について、A とB はどのように述べているか。

漢字読み

1。 時間があつにつれて、選手の動きが鈍ってきた。

2。 高校生のごる、「将来は海外で動きたい」と漠然と考えていた。

3。 閲覧した資料は、カウンターに戻してください。

4。 首相は自身の発言についての釈明におわれた。

5。 弊社は今回の合併を機に社名を変更します。

6。 ようや景気回復の兆しが見えてきた。

文脈規定

1。 大学をやめると言ったら、母に(  )反対だれた。

2。 そんな軽装で冬の山に登るなんて、(  )だ。

3。 今回の作品は、彼にとって(  )の出来と言えるだろう。

4。 この言葉にわ、やや批判的な(  )が含まれている。

5。 この辺りは、高速道路と鉄道が(  )して走っている。

6。 この文章は新聞記事からの(  )です。

7。 コピー用紙の(  )が減ったら、注文しておいてください。